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生誕100周年!「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」の作者、水木しげるの生涯

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2022年は水木しげる生誕100周年。それを記念して封切られた東映アニメ映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は興行収入12億を突破、従来の読者にとどまらず新規ファンを開拓しました。
今回は『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』で一世を風靡した漫画家、水木しげるの生涯をご紹介していきます。

目次

生まれは大阪、育ちは鳥取

水木しげるの本名は武良茂。1922年大阪生まれ、幼年期は鳥取県境港市で過ごしました。
当時の思い出は1991年放送のドラマ、『のんのんばあとオレ』に詳細に描かれています。幼少期のエピソードとして注目すべきは、「死」に対し早熟な関心が芽生えた五歳の時の出来事。死ぬとはどういうことか知りたい水木は、三歳の弟を海に突き落とそうと企て、家族にカミナリを落とされました。

『のんのんばあとオレ』は子供時代の水木しげると、武良家にお手伝いに来ていた景山ふさの交流を軸にした話。
景山ふさは実在の人物で、拝み屋(境港市の方言で「のんのんさん」)の女房でした。
水木しげるはのんのんばあに懐き、彼女から沢山の不思議な話や怖い話を語り聞かされます。

中でも一際印象的なのが夜道を行く人間に付いてくる妖怪、べとべとさんのエピソード。
足音が聞こえるだけで無害な妖怪なのですが、どうしても怖い時は片側に寄り、「べとべとさん先お越し」と唱えれば、難を逃れられるそうです。
水木少年は実際にべとべとさんに遭遇し、のんのんばあから教わった方法で事なきを得ました。

南方戦線で左腕を失い、復員後は紙芝居屋に

さて、水木少年は絵を描くのが得意でした。高等小学校卒業後は画家を目指して大阪へ行き、働きながら勉強を続けます。
時は1943年、第二次世界大戦の真っ只中。水木青年にも召集令状が届き、ニューギニア戦線のラバウルに送られます。『ゲゲゲの謎』の水木と同じですね。

終戦近く、南方戦線の惨状は熾烈を極めました。水木が配属された連隊では上官の体罰が横行し、要領の悪い水木は目を付けられ、「ビンタの王様」とあだ名されるほどいびり倒されます。
その後敵軍の攻撃で左腕を欠損、さんざんな辛酸をなめることに。一方で現地民と仲を深め、本気で島に移住する事も考えたとか。
この願いが叶っていれば、我々が『ゲゲゲの鬼太郎』を読むことはなかったかもしれません。

日本に帰った水木は美術学校へ進むも、生活苦から辞めざるを得ず、以降は様々な職を転々とします。ペンネームの由来は彼が買い取ったアパート、水木荘から。
大家の人柄の影響でしょうか、水木荘には奇人変人が集まりました。
その中に紙芝居屋の弟子がおり、彼の働きぶりに感化され一度は諦めた絵仕事への情熱が甦った水木は、新作の持ち込みを開始します。

水木の新作は活弁士・鈴木勝丸の目にとまり、彼が所属する林画劇社の専属作家として再スタートを切りました。代表作は『空手鬼太郎』『河童の三平』他、後世に繋がる人気シリーズのプロトタイプとして発表されました。
が、順風満帆な日々は長くは続きません。紙芝居市場はテレビや貸本漫画に圧迫され、縮小を余儀なくされていました。

漫画家デビュー

戦後日本ではカストリ雑誌や貸本屋が大ブームを巻き起こし、漫画の需要が高まっていました。悩んだ末、水木しげるは漫画家への鞍替えを決意。活動の場を東京へ移しました。
1958年、『ロケットマン』で正式デビュー。水木しげるは35歳、漫画家としては遅咲きです。
以降、水木はSF・ホラー・ファンタジー・ギャグ・時代劇・少女漫画と、あらゆるジャンルを股にかけ、精力的に作品を送り出し続けます。

貸本出版社は零細企業が多く、遅筆の水木が稼げる原稿料はたかが知れています。
漫画が売れなかった場合、不人気作家の噂が出回り他の出版社にもそっぽを向かれるのですから、シビアな業界と言わざるを得ません。
なかなかヒットに恵まれず、不遇の時代が数年に亘り続いた結果、水木の漫画は陰惨な作風を強めていきました。そのせいでますます編集に嫌われる悪循環に陥ります。

1961年、四十路の水木を心配した親がお見合いを手配。
お見合いの席にて水木は高給取りであることを強調し、洗練された都会人を気取ったものの、うっかり鳥取の方言を零し、一同の笑いを誘いました。
このお見合い相手こそNHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』のヒロイン・村井布美枝のモデル、飯塚布枝でした。四十歳未婚独身、まさに背水の陣だった水木はその場で結婚を即決。お見合いから僅か五日で式を挙げ、布枝と所帯を持ちます。

『悪魔くん』『墓場鬼太郎』が異例のヒット!売れっ子生活突入

結婚後も暮らし向きは楽になりません。翌年に長女・尚子が産まれた際は、漫画家を辞めようか真剣に悩んだそうです。
だがしかし、ここで転機が訪れます。貧乏とスランプのどん底に叩き落とされた水木は、紙芝居屋時代に描いた『空手鬼太郎』のリメイクを思い付き、『墓場鬼太郎』シリーズを制作。
当初は人気がふるわず打ち切りの憂き目を見るも、終了後に熱心なファンが再開を望み、どんどん版を重ねていきます。
漸く漫画家として軌道に乗った水木は、続々と鬼太郎の新作を発表し、読者を増やしていきました。

片や『悪魔くん』の評判はいまいち。一番最初の『悪魔くん』は、水木しげるが極貧への反骨精神全開で描いたもので、過激な思想と社会風刺に満ちていました。
やがて貸本漫画は衰退し、水木は月刊漫画ガロや週刊少年マガジンで漫画を描き始めます。
週刊少年マガジンに掲載された『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞した事で、水木一家の暮らしは潤い、質に入れていた財産を全部取り返す事ができました、

水木プロダクション設立

1966年、水木プロダクションを設立。妖怪ブームの到来と共に水木の仕事は多忙を極め、また事務所の運営費の捻出にも苦慮し、めまいや耳鳴りの症状に悩まされます。
1980年代、ブーム沈静化に伴い家計は再び苦しくなり、水木しげるの創作意欲は枯渇しました。

目に見えない存在への探求心を失い、「妖怪なんて嘘っぱちだ」と吐き捨てる水木を立ち直らせたのは、次女・悦子の発言でした。なんと、修学旅行先で妖怪・目々連を目撃したというのです。
目々連の出現は何かの先触れだったのでしょうか、これ以降「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」のアニメ放送や映像化が重なり、ファンの裾野がさらに広がっていきました。

水木しげるよ永遠に 

2015年11月11日、水木しげるは調布市の自宅で死去しました。享年93歳、大往生です。晩年も執筆は止めず、生涯現役を貫いた末の最期でした。
彼が家族と共に人生の大半を過ごした調布市には、『ゲゲゲの鬼太郎』ファンのメッカ、鬼太郎茶屋が存在します。

深大寺の参道に位置するこの店は、水木しげる関連の書籍やグッズを取り揃えており、二階は展示室として開放されています。写真撮影ならびにSNSへのアップも自由なので、ぜひ足を運んでください。毎年大晦日には目玉のおやじ団子を食べられます。
また、水木しげるが幼年期を過ごした鳥取の境港市では、水木しげる記念館や水木しげるロードが迎えてくれます。177体に及ぶ妖怪の石像が待ち受ける光景は圧巻でした。

まだまだ続く水木しげるブーム

以上、偉大な漫画家・水木しげるの生涯を解説しました。『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』、Netflix配信中の令和版『悪魔くん』のヒットをご覧になればわかるとおり、彼の死後も作品は愛され続けています。
水木しげるファンとしては、『ゲゲゲの鬼太郎』アニメ第七期の発表を信じて、原作を読み返したいところです。

(C) 水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション
(C) 水木プロダクション
※写真はイメージです。

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