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日本に引き継がれた遺伝子と歴史の関わり

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長江流域に暮らしていた人々と日本の弥生人の間には深い関係があると言われています。
ここでは、日本に引き継がれた遺伝子が歴史にどのようにして関わっていったかを推察してみたい。

目次

日本人の遺伝子

日本人の遺伝子の最近の研究によると、現在の日本人は男系遺伝子は、日本の縄文人の遺伝子ないしチベットから中東の一部の人々にかけて存在する縄文系遺伝子、あるいは中国の長江流域の人々のハプログループ02遺伝子を主として有しているということである。

春秋戦国時代、中国南部において、呉(ゴ)、越(エツ)、楚(ソ)は、それぞれ強大な国を築き、度々互いに戦火を交えて興亡を繰り返していたが、呉は戦国時代の始めである紀元前473年に越によって滅ぼされ、越は紀元前334年に楚によって滅ぼされ、楚は紀元前223年に秦(シン)によって滅ぼされた。

呉が越によって滅ぼされた時期は、日本における弥生時代の開始時期に一致している。
呉の人々は、稲作を行い、漁労などの海における活動に長けており、かろうじて海路を渡ることに成功し運よく日本に逃れ、稲作技術が広まったもののと推測される。
現在、日本で栽培されている稲の遺伝子は長江流域の稲の遺伝子と同じものであることが判明している。

現在の中国の人々においては統計上ハプログループ03系の男系の遺伝子が大勢を占めている。これは、4世紀頃からの北方騎馬民族の南下圧力に押されて多くの漢民族が長江流域にも浸透してきて、そこで農業を含めた産業が発達し漢民族の人口の絶対数も増大したことによると考えられる。
いずれにせよ縄文系の遺伝子を有する人々が住む日本列島に渡ってきて、渡来人による征服などのことは起こらず、両民族は年月をかけて融合してゆき、弥生人が形成されたのであろう。

邪馬台国と渡来人系

四川省の長江文明の遺跡である三星堆遺跡において発見された青銅製や金製の仮面のようなものは、シャーマニズムを連想させる異形の形を有している。
遺跡の近辺は楚の領域の一部に相当し、楚の文化はシャーマニズムの要素も有していたようで、楚王は巫祝王としてぼく占により人々を統治していたと言われる。

西暦57年に、後漢の光武帝は奴国からの朝賀使に印綬を賜ったという記録があり、日本列島には小国のようなものが幾つか成立していたことが判る。
時代が下がって紀元3世紀の中国の三国時代、邪馬台国の女王卑弥呼は南の狗奴国を相手に苦戦していた。卑弥呼は、中国の三国のうちの魏から離れて遼東の地に独立国燕を建国しようと公孫淵に朝貢していたが、魏によって公孫淵一族が滅ぼされると、魏に朝貢し支援を求めるようになった。

邪馬台国が九州北部にあったと仮定して、邪馬台国から海を島伝いに北上し、その後、朝鮮半島の西海岸沿いに船で北上すれば比較的楽に遼東半島に到達できるので、邪馬台国は遼東の地と縁があったのであろうか。
海の向こうの中国の話なのに、卑弥呼はその状況に随分敏感に反応し、詳しいという感じを受ける。あるいは、卑弥呼は公孫氏の一族に関係があったのであろうか?
大和朝廷に仕えた赤染氏は、公孫氏の血を引く渡来人系であると言われている。

さいごに

藤原北家出身の藤原秀郷の後裔である奥州藤原三代の清衡公、基衡公、秀衡公はミイラからの遺伝子の調査結果によって、藤原氏の先祖である中臣氏はハプログループO2遺伝子(男系)を有していたことが判明した。

現在の日本人の遺伝子分布に達するには、混血の進行に必要な年月を含めて相当の年月を要したものと思われる。
しかし、確実に日本の歴史には影響を及ぼしていると推察するのであった。

※画像はイメージです。

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