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19世紀のアメリカVS朝鮮「ジェネラル・シャーマン号事件」

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19世紀中頃、アメリカ合衆国の商船ジェネラル・シャーマン号の乗組員が、全員虐殺されるという悲劇「ジェネラル・シャーマン号事件」が起こりました。

この事件はアメリカと朝鮮の関係に大きな影響を与え、のちの外交交渉や政治的な動きにも深い影響を及ぼしたとされています。当時の東アジアにおける国際政治の緊張感を象徴する出来事です。

目次

貿易拡大と鎖国政策の衝突

ジェネラル・シャーマン号事件の背景には、19世紀のアメリカ合衆国の貿易拡大政策が関与しています。当時、アメリカは海外市場への進出を目指し、東アジアの商業活動にも積極的に取り組んでいました。そのため、船舶が朝鮮半島の東海岸に航行することは、新たな貿易機会の開拓を目指す重要な一環でした。

一方、当時の朝鮮は閉鎖国。自給自足の経済体制を維持し、外国勢力からの侵略や干渉を防ぐために、交流を極力抑える方針を取っていました。そのため、アメリカ商船が朝鮮に接近すること自体が、朝鮮当局にとって警戒すべき事態だったのです。

1866年8月、ジェネラル・シャーマン号は中国の天津を出航。大同江から平壌付近まで航行し、朝鮮当局に交易を求めました。しかし、鎖国政策中の朝鮮はこれに応じず、船の退去を求めます。一方、ジェネラル・シャーマン号の乗員もそう簡単には応じません。朝鮮側の使者が乗った小舟は転覆させられ、人質として捕縛。さらに、ジェネラル・シャーマン号は沿岸に集まっていた住民に砲撃を行い、10人以上の住民が殺害されたと伝えられています。

これらの行為に激怒した住民はジェネラル・シャーマン号に攻撃を加え、激しい戦闘の末に船は座礁。朝鮮側は船を焼き払い、乗組員は全員惨殺される結果となりました。

江華島への軍艦派遣と朝鮮への謝罪・通商要求

アメリカ政府はシャーマン号の行方不明に驚き、清国(中国)政府に調査を依頼。そして、1871年6月に軍艦3隻を派遣して江華島を襲撃し、朝鮮に謝罪と通商を要求しました。この戦いは「辛未洋擾(しんみようじょう)」と呼ばれ、朝鮮軍は激しく抵抗しましたが敗北。しかし、アメリカの本来の目的である通商は、李氏朝鮮王族・大院君の開国拒絶により実現には至らなかったのです。

同時期に、朝鮮ではフランス軍との「丙寅洋擾(へいいんようじょう)」という衝突も起きています。朝鮮はこの戦いで勝利しており、その戦果に自信を持っていたためアメリカの要求を拒否し、鎖国政策をより強化する正当性を持っていたのです。

しかし、朝鮮の鎖国政策が段階的に開放されていったのはご存知の通り。まず1876年の日朝修好条規によって貿易港が開放され、1882年の米朝修好通商条約によってアメリカとの貿易が強化。そして、1895年の下関条約により日本による保護国化が決まります。この日本の保護国化に関する問題は現在でも両国の関係を複雑にしています。もしもこの事件が平和的に解決されていたら、鎖国が解除されていたならば、私たちの関係は異なる展開をたどっていたのかもしれません。

シャーマン号事件の曖昧さと捏造の疑念

これらの一連の流れは、国際関係や外交政策の教訓としても重要です。両国の対立や文化の違いが事件を悪化させた要因といえるでしょう。このような経験を踏まえて、国際社会は相互理解と対話の重要性を認識し、同様の事件を未然に防ぐために努力する必要があります。

しかし、この事件の全容は未だはっきりしていないのが現状です。シャーマン号乗組員による朝鮮住民の殺害が引き金とされていますが、乗組員が全員虐殺されたため、残されているのは朝鮮側からの供述のみ。また現在の北朝鮮では、金日成の曽祖父である金膺禹(キム・ウンウ)が戦ったとされていますが、プロパガンダによる捏造の可能性も指摘されています。そのため、事件の具体的な検証や真相解明は困難なのです。

隣国で起こったこの事件は、日本の幕末から明治にかけて起こったもの。しかし、日本は幕末である嘉永6年(1853)に開国していた日本は早くも近代化に進んでいました。ほんの数年の違い、国際社会への対応の違いにより、同様の紛争を回避することができたのかもしれません。

※画像はイメージです。

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