シャルル・ペローの童話『青ひげ』のモデルとなった人物、ジル・ド・レをご存知でしょうか?聖処女ジャンヌ・ダルクの腹心として戦ったのち、大量殺人鬼に堕ちたドラマチックな生涯は、我々の好奇心をくすぐりますよね。
今回はフランスが生んだ大量殺人鬼、ジル・ド・レの逸話をご紹介します。
相次いで両親が死亡、極悪人の祖父のもとへ
ジル・ド・レの本名はジル・ド・モンモランシー=ラヴァル。1405年、シャントセの城で産声を上げます。
ジルは由緒正しい貴族の倅で、両親とも名家の出でした。当時は政略結婚が当たり前の時代。ジルの両親も婚姻によって領土を拡大し、絶大な権力を手にします。
11歳の時、ジルは相次いで両親を亡くします。母親の病死後、1年経たずに父が狩猟中の事故で命を落としたのです。
孤児になったジルは弟のルネと共に、母方の祖父ピエール・ド・クランに引き取られました。
が、このピエールはとんでもない悪党でした。主君のイタリア遠征に乗じて軍資金の横領を働いた他、フランス大元帥の暗殺を企てるなど、前科は枚挙に暇がありません。ジルの実父も舅を警戒していた節があります。
ピエールの目当てはジルが相続予定の遺産。孫の後見人に名乗りでたのも、下心があったからだと見なされています。それを裏付けるようにジルとルネは放任され、娘夫婦の遺産、ならびに領地をまるごと乗っ取ったピエールはご満悦。放蕩三昧の祖父や俗世間の動向をよそに、ジルは屋敷の図書室に引きこもり、一日中書物を読み漁っていたそうです。
両親存命時は専属家庭教師の指導を受け、祖父の屋敷に移ってからは独学でラテン語を修めたジル。神童の呼び声高い優秀な少年が道を踏み外すと、この時誰が予想し得たでしょうか。
既成事実を作れと命じられ・・・
ピエールは案の定孫を政略結婚の道具に使い、1417年に貴族の娘ジャンヌ・ペインルと、1419年にはマルグリット・ド・ブルターニュとお見合いをさせます。
しかしどちらも上手くいかず、三度目の正直といわんばかりにカトリーヌ・ド・トアールと夫婦の誓いを立てました。……というのは表向きの発表。ピエールがカトリーヌを誘拐し、ジルに娶らせたのが真実でした。
これはトアール家とクラン家が親戚筋にあたり、教会の許しを得るのが困難だった為。自らさらった少女を犯せと孫に命じ、それをもって夫婦と見なす……神をも恐れぬ蛮行と言わざる得ません。
ジャンヌ・ダルクと運命の出会い、戦場の活躍
1424年、ジルは宮廷デビューを飾ります。翌年に初陣を果たし、アンジュ―公ルイ3世の副司令官として活躍しました。当時のフランスは百年戦争の真っ只中。イギリスの快進撃により劣勢に追い込まれ、要塞都市オルレアンを失いかけていました。
ジルに転機が訪れたのは1429年。この年、ジャンヌ・ダルクと出会います。
神の声を聞いたと主張し、フランス救済の御旗を掲げて軍を率いるジャンヌにジルは心酔しました。
同年、ラ・イル、ジャン・ポトン・ド・ザントライユ、ジャン・ド・デュノワ、アランソン公ジャン2世、アンドレ・ド・ラヴァル、アルテュール・ド・リッシュモンらとオルレアンを奪還。ジル・ド・レ黄金期、輝かしき青春の日々です。
シャルル7世の戴冠を見届けたのち、ジルはジャンヌと別れ、所領に帰っていきました。
オルレアンの乙女、死す
ここで物語が終わっていれば、ジル・ド・レの名前は英雄として語り継がれたかもしれません。
1431年、ジャンヌはイギリス軍に捕らえられます。恩人の危機に対し、シャルル7世は救済措置を講じませんでした。戴冠の最大の功労者であるジャンヌを、実にあっさり見捨てたのです。オルレアンの乙女の人気に嫉妬したのではないか、と歴史家は考察しています。
獄中のジャンヌは悲惨な運命を辿りました。当時の教会法では異性装は罪とされ、ジャンヌも異端として裁かれたのです。
ジャンヌの男装は戦場での動きやすさを重視した結果。されど反論は無意味。仕方なく女の服に着替えれば、兵士たちに辱められます。
ジルはジャンヌの救出を計画し、王や祖父に働きかけたものの間に合わず、オルレアンの乙女は火炙りに処されてしまいました。
信心深いジャンヌにとって、火刑がどれだけ恐怖の対象だったかは計り知れません。
肉体が灰に帰ってしまえば、最後の審判を受け、復活を遂げる事は絶望的です。
ジャンヌ処刑の報にショックをうけたジルは、以来自暴自棄に陥り、放蕩に耽りました。
青ひげに凌辱された少年たちの運命
ジルの精神の荒廃を進めたのは、自称錬金術師フランソワ・プレラーティ。
プレラーティはまんまとジルに取り入り、彼をパトロンにして黒魔術の儀式を行います。
当時のプレラーティは22歳の蠱惑的な美青年。ジルは彼に夢中になり、出資を惜しみませんでした。ジルは同性愛者、プレラーティはセフレだったとも言われています。
黒魔術の儀式にはしばしば鶏などの生贄が用いられました。ジルはこれに満足できず、小姓として雇い入れた所領の少年たちを凌辱後に殺害。新鮮な生贄としてプレラーティに提供しました。この所業が「青ひげ」のモデルとなったのは有名な話。
ジルとプレラーティが頻繁に儀式を行ったのは、より強い悪魔を呼び出し、財産を取り戻す願いを叶えてもらうためでした。
ジルはもともと少年愛好癖癖のある同性愛者だった説が有力。唯一の例外としてジャンヌに惹かれたのは、常日頃から少年の姿をしていたからではないでしょうか。
なお、ジルは友人に唆される前から少年を手に掛けていました。以前は凌辱そのものが目的でしたが、プレラーティと知り合ったのちは、強姦殺人が手段に変化します。
小心者なジルは悪魔の出現に備え、「命だけはご容赦を」と綴った嘆願書を常に用意していました。
被害者の大半は貧しい農民の倅。ジルは城の雑用係として彼等を取り立て、あるいは部下に誘拐させ、白いパンを与えるなどして手懐けます。中世欧州の農民の主食は固くてまずいライ麦パン、柔らかく甘い白パンは貴族しか食べられない高級品でした。
それから膝の上で愛撫し、嬲り殺したのちに暖炉で焼却。裏庭に骨のかけらを埋め、証拠隠滅を図りました。生贄の体の一部を詰めた瓶をプレラーティに貢ぎ、ご機嫌とりも忘れません。「城の近くで子供が消える」「領主さまは悪魔と契約した」……領民たちはそう噂し、遺族は泣き寝入りを強いられました。
ジル・ド・レの最期
1440年、遂にジル・ド・レの罪が暴かれます。きっかけは土地の売買で揉めたジルが、聖職者を誘拐したこと。この暴挙を憂えたナント大司教ジャン・ド・マレストロワが、二か月に亘る綿密な調査の末、殺人鬼を告発したのです。
ジルとプレラーティは裁判に掛けられたものの、ここでも意外な展開が待ち受けていました。
ジルは誘拐殺人こそ認めたものの、黒魔術の儀式への関与は否定。しかし役人が拷問の準備を進めているのを知り、観念して罪を認め、自らの行いを切々と懺悔します。その姿を見た民衆も貰い泣きし、ジルの恩赦を願い出る者すら現れる始末。
1438年10月26日、ジル・ド・レは絞首刑に処されたのち死体を焼かれました。
一方のプレラーティは終身刑に処されるもちゃっかり脱獄。今度はアンジュ―公ルネにすり寄るも、再逮捕後に絞首刑が執行されます。
ジル・ド・レは異常者なのか?
以上、フランスを代表する大量殺人鬼ジル・ド・レの紹介を解説しました。
祖父が孫を利用する欲深い人物でなければ、ジャンヌが助かってさえいれば、ジルもまた天寿をまっとうできたのでしょうか?
確実に言えるのは、ジルに誘拐の手口を叩き込んだのがピエールである事実だけ。花嫁の強姦を命じられた体験がトラウマとなり、同性愛者に転向したとも考えられます。
皆さんのご意見もぜひお聞かせください。
featured image:Éloi Firmin Féron, Public domain, via Wikimedia Commons
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