古来、美女をめぐる様々な動きが歴史の趨勢に影響を与えることは珍しくありません。
要衝 山海関
秦の始皇帝が建造し、歴代王朝が遊牧民族の侵入を阻むために修築を繰り返した万里の長城。
明の建国後は現在まで残る堅固な長城が整備された時代でした。長城の東側に位置し、中国東北地方・満州との境を固めていたのが山海関でした。
サルフの戦いで勝利したヌルハチも、その跡を継いだホンタイジも山海関を超えることはできませんでした。
当時、明の精鋭を率いて山海関を守っていた将軍が呉三桂です。
呉三桂の動向と明王朝の滅亡
最強の軍団を預かっていた呉三桂でしたが、清の名将ドルゴンと山海関を挟んで対峙していました。
明の国内情勢は混沌としていました。各地で反乱が相次ぎ、その反乱勢力が一本化されつつあったのです。
明の要地を陥落させ、最大の勢力をもったのが李自成です。彼は順の建国を宣言し、自ら皇帝の地位につきました。
李自成軍は明の首都である北京へと迫ります。皇帝は呉三桂に対し北京守護を命じ、それに応じて呉三桂も南下します。
ところが、呉三桂の到着よりも早く北京は陥落、進軍の意味を失った呉三桂は山海関に引き上げました。
進退窮した呉三桂と陳円円の伝説
前方にドルゴン率いる清軍、後方から投降を呼びかける李自成。呉三桂は進退窮まってしまいました。
ここに、一つの伝説があります。呉三桂の愛妾であった陳円円にまつわるものです。
陳円円は絶世の美女として名高い女性でした。もともとは江南の生まれのようですが、皇帝の妃の父に見いだされ北京へと連れてこられました。
その後、呉三桂と出会い彼の愛妾となっていました。李自成の耳にも彼女の話は伝わっていました。
北京占領後、李自成は陳円円をとらえてしまいます。このことを知った呉三桂は激怒します。
後代の詩に呉三桂が清軍に投降したのは「冠を衝く一怒は紅顔の為なり」(呉三桂が投稿したのは陳円円を助けるためだ)と書かれたほどです。
山海関の門を開け放ち、清軍の助けを得た呉三桂は李自成を北京から追い払います。
呉三桂の最期
功績により領土を与えられた呉三桂ですが、清の支配に対して不満がありました。
もともと、彼は好んで清に投降したわけではありません。満州人の支配に不満を持っていても全く不思議はありませんでした。
時の皇帝である康熙帝は彼の反逆を待っていたかもしれません。漢人としては力を持ちすぎた呉三桂の存在はもはや危険なものでしかなかったからです。
呉三桂は同じ境遇の漢人藩王とともに反乱を起こします。これが、三藩の乱です。結果、反乱は鎮圧され呉三桂は処刑されました。
はたして、呉三桂にとって山海関を開け放った判断は正しかったのでしょうか。
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