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サッカー戦争と呼ばれたエルサルバドルとホンジュラスの戦争

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現時点の2023年10月でも、前年の2022年2月にロシア側がウクライナ領内へと軍事侵攻を開始した状態は続いているが、日本を含む西側諸国の大多数の国々では、この一連の戦いをロシア・ウクライナ戦争と呼んでいる。
にも関わらず攻撃を仕掛けた側のロシア側は依然として、この戦いを特別軍事作戦と称しており、これは現在の国際法上の戦争にこの戦いが該当しないよう、政治的な配慮を行っているのだと解釈されている。

そんな状況で今の時代は傍から見れば明確な戦争行為ですら、一方の当事国の政治的な思惑で戦争と呼ばれない奇妙な状況が生じているが、これまでの歴史上では多くが参戦国の名や、生起した地理的名称が戦争名とされるケースが多い。

最近の21世紀の例で見ても1991年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争など、こうした国名や、生起した場所の地理的名称が冠されている事が多いのは明らかだが、歴史上では稀にこの定義から漏れる例もある。
そうした例は非常に少数ではあるが例えば世界史的にも有名なものとしては1840年の清国とイギリスによるアヘン戦争があり、また非常に日本から見ればマイナーだが、1969年に生起したサッカー戦争などがある。

このサッカー戦争、中南米のエルサルバドルとホンジュラスが戦った戦争であるが、何故こうした名称で呼ばれるに至ったのか、その理由について紹介してみたいと思う。

目次

中南米のエルサルバドルとホンジュラスが戦ったサッカー戦争とは

サッカー戦争とは、1969年7月14日から7月19日にかけての凡そ6日間の間、共に中南米の小国で隣接した2国であるエルサルバドルとホンジュラスとが行った戦争を指す名称として、今日でも一般的に使用されている。
このサッカー戦争は、別名として生起した時期や続いた時間を指して、1969年戦争や100時間戦争、また当事国同士の名称からエルサルバドル・ホンジュラス戦争の別名も持つが、サッカー戦争が最も知名度の高い名称だろう。

なぜこの両国の戦いがサッカー戦争と呼ばれているのかと言えば、1970年に開催されたサッカー・ワールドカップのメキシコ大会出場に向けた北中米カリブ海予選での試合を契機として、その後に生じた戦争である為だ。
サッカー・ワールドカップのメキシコ大会出場に向けた北中米カリブ海予選は1969年に行われ、一時予選をそれぞれ勝ち抜いたエルサルバドルとホンジュラスが先ず準決勝で対戦を行った。

この準決勝の第一戦はホンジュラスで開催され、ホンジュラス代表が1-0で勝利を収めたが、アウェーのエルサルバドル代表が宿泊したホテルの周囲ではホンジュラス側のサポーターの妨害行為が顕著だった。
続いての第二戦はエルサルバドルで開催され、ここではエルサルバドル代表が3-0と勝利するも、アウェーのホンジュラス代表はやはりエルサルバドル側のサポーターの妨害行為に晒され、且つホンジュラス側のサポーター2名が死亡する暴力事件に発展した。

両国が1勝1敗の五分で並んだ為、1969年6月27日にはメキシコで3度目の対戦が行われ、エルサルバドル代表が延長戦で3-2とする辛勝を得たが、当日のスアジアムは両国サポーターの衝突を危惧、入場者を2万人に制限し機動隊を配置した状況で実施された。
こうしてワールドカップのメキシコ大会出場に向けた北中米カリブ海予選では勝利を収めたエルサルバドルだったが、並行してホンジュラスに移住していた自国民が排斥を受け自国内に退避する状況に見舞われた。

エルサルバドルとホンジュラスが相互に国交断絶

こうした流れの中でエルサルバドル政府は1969年6月23日には、国家非常事態宣言を出して臨戦態勢に移行、3日後の26日にはホンジュラスとの国交断絶を表明、翌27日にはこの動きに呼応してホンジュラス政府もエルサルバドルとの国交断絶を宣言した。
サッカー・ワールドカップのメキシコ大会出場に向けた北中米カリブ海予選の実施と並行している。

そして翌月の7月3日、エルサルバドル側によればホンジュラス空軍機が自国内のエル・ポイの国境監視所に先ず爆撃を敢行、エルサルバドル空軍も迎撃用に戦闘機を出撃させ、以後の爆撃を阻止したとしている。
またこうした空軍の動きと並行して、エルサルバドルとホンジュラスの両国の陸軍部隊が国境線を挟んで相互に銃撃を行う事態も発生、両国の軍事衝突は空と陸とでエスカレートしていく様相を呈した。

ホンジュラス側の主張では7月9日にエルサルバドル陸軍の部隊が自国領に侵入、村の民家の一部が焼失、3日後の7月12日には同じく自国領内に侵入したエルサルバドル陸軍部隊とホンジュラス陸軍部隊との間で銃撃戦となった。
翌7月13日には再びエルサルバドル側のエル・ポイ周辺において、両国軍部隊が戦闘に及び、民間人への被害も発生、南北アメリカ大陸及びカリブ海の独立主権国家が加盟するOAS(米州機構)も既に7月4日から対策を協議していた。

OAS(米州機構)はエルサルバドル側の働きかけで理事会を招集し対応の協議を始めたものだが、無論エルサルバドルとホンジュラス側双方は相手側の非を指摘するのみで、実際の戦争へと突き進んだ。

遂に生起したサッカー戦争

そして1969年7月14日、エルサルバドル側は大統領が同国空軍に対し、ホンジュラス領内の複数箇所への先制攻撃を直接指示、目標は空港や軍事施設で手段は爆撃であり、先制攻撃によりサッカー戦争の幕を開いた。

エルサルバドル空軍によるこの空爆の後、エルサルバドル陸軍部隊は3方向からホンジュラス領内へと侵攻したが、これはホンジュラス空軍の戦力が自軍より勝っている事を念頭に置いた故の奇襲作戦と言えた。
しかしエルサルバドル空軍による奇襲空爆は作戦としては成功せず、翌7月15日にはホンジュラス空軍の複数の航空機でエルサルバドル領内に侵入して空港や港湾施設への爆撃で反撃、2.5倍程と見られた空軍力を遺憾なく見せつける。
空軍の戦力のみに留まらず元々面積や人口、経済面など国としての規模の大半の項目でホンジュラス側はエルサルバドル側を上回っていたが、そんな中で唯一陸軍戦力については両国の戦力は拮抗していたとされている。

エルサルバドル・ホンジュラス共に陸軍は凡そ5,000程度の人員を抱え、その装備の大半は第二次世界大戦でアメリカ陸軍が使用していた兵器を払い下げられたもので構成されており、空軍程の実力差は無いと思われていた。
しかし部隊の運用や練度と言う点でエルサルバドル陸軍はホンジュラス陸軍を上回っていたと見られ、7月15日までにホンジュラス領内に凡そ40平方キロほども占領地を得る事に成功した。
但しホンジュラス側は優勢な航空戦力によってエルサルバドル領内の石油貯蔵施設等の破壊を行い、燃料補給が不安定となったエルサルバドル陸軍はそれ以上の前進が不可能な状態に置かれてしまう。

陸上部隊による侵攻では優位に戦いを進めたエルサルバドル側は7月16日時点では依然として強気な態度を表明していたが、不利を悟り翌17日には条件付きで停戦に応じる方向に転換、18日にはOAS(米州機構)の仲介でそれが実現した。
その後も紆余曲折はありつつ、翌月の1969年8月3日にはホンジュラス領内に侵攻していたエルサルバドル陸軍部隊が完全撤退を終え、エルサルバドルとホンジュラスによるサッカー戦争は幕を閉じた。

世界史上最後のレシプロ機による空中戦

サッカー戦争の中で語り継がれている最も有名であろう戦闘が、1969年7月17日に行われた世界史上最後のレシプロ機同士による空中戦であり、ホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト・エンリケス大尉がその名を世界に知らしめた。

レシプロ機とは推進力を発揮するプロペラを、ガソリンやディーゼルと言った通常の内燃機関で駆動して飛行させる航空機の事で、1969年には大半の国の空軍が既にジェット機を主力機としていた。
しかしサッカー戦争を戦ったエルサルバドル・ホンジュラス共に世界的に見ても非常に貧しい国であった事から、その時期でも第二次世界大戦時にアメリカで生産された航空機の払い下げのレシプロ機を使用していた。

ホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト・エンリケス大尉は、そんなレシプロ機のヴォートF4U-5コルセアで出撃し、エルサルバドル空軍のレシプロ機であるノースアメリカンP-51Dマスタング1機とグッドイヤーFG-1Dコルセア2機を撃墜した。
すでにベトナム戦争等ではアメリカ軍であればジェット戦闘機にミサイルを主兵装として装備していた時代であり、第二次世界大戦時のアメリカ軍のレシプロ機同士がこの時代に空中戦を行ったと言う稀有な戦闘だった。

サッカー戦争に感じる業

サッカー戦争はこれ迄見てきたように、ワールドカップのメキシコ大会出場に向けた北中米カリブ海予選のエルサルバドルとホンジュラスの3度の対戦の後、発生した為にその名で今日も世に知られている。
しかしこの時のサッカーの試合の勝敗がその戦争を引き起こした訳ではなく、互いに隣接したエルサルバドルとホンジュラスの両国政府が、経済的な貧しさ故に国内に内包した自国民の不満を煽った結果のように見える。

個人的に感じるのは、如何に装備が旧式であろうと戦争が起きるときは起きると言う現実であり、人類の哀しい業をそこに垣間見るように思えてならない。

※画像はイメージです。

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