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コンクリートの要塞。軍艦島こと端島を探訪

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世界中の廃墟マニアから注目を集めている軍艦島こと長崎県の端島。
名前の由来は鉄筋コンクリートの建築群のシルエットが軍艦に似ているからで、日本では最も有名な無人島といえます。

今回は軍艦島の歴史や成り立ちを紐解きながら、絶対外せない島内の注目スポットをご紹介していきます。

目次

軍艦島のはじまり

九州地方長崎県の沖合に浮かぶ小島、端島。全体面積は0.063 km²、東京ドーム五個分に相当します。

端島が初めて歴史に登場したのは『正保国絵図』。この文献では「はしの島」と記されています。
時代が下り『元禄国絵図』では「端島」の漢字をあてられ、以降この表記が定着しました。

端島では漁師が片手間に石炭を掘って売り歩いていましたが、本格的な採掘の取り組みは行われていませんでした。これは漁師の副業なので「磯掘り」と呼ばれたそうです。
世情が変わり始めたのは明治初頭。この頃には石炭の採掘が基幹産業となり、長崎の業者が端島に目を付けます。

とはいえ立地的に不利を被り一年足らず撤退。端島が本格的に栄え始めるには、1886年(明治19年)の第一竪坑の完成を待たなければいけませんでした。
この第一竪坑は16メートルの長さを誇り、端島のその後の発展に大きく寄与します。
最初の業者が撤退を余儀なくされたのは、端島が長崎の沖合に位置し、台風の通過点になっていたのも無関係ではありません。

富豪が10万で三菱に譲渡、以降100年間私有地に

当時端島炭鉱を所有していたのは大富豪・鍋島孫太郎でした。鍋島は旧鍋島藩深堀領主も兼ね、炭鉱の全権を掌握する人物だったと伝えられています。

1890年(明治23年)、鍋島は三菱財閥に10万円で端島炭鉱の権利を譲渡します。
この契約がきっかけで端島は100年間三菱の私有地となり、多くの炭鉱夫が家族を伴い移住しました。

譲渡後は第二竪坑と第三竪坑が完成。社船「夕顔丸」の往復が始まり、飲料水の補給も完備され、住みやすい環境へと生まれ変わります。
島の周縁の埋め立ても段階を踏んで行われ、三菱財閥の庇護のもとで炭鉱夫たちの待遇は向上していきました。

人口は昭和期にピークに

1916年(大正5年)、端島にて日本最初の鉄筋コンクリート製集合住宅「30号棟」が誕生します。
このコンクリート住宅の威容を大阪朝日新聞が「軍艦とみまがふさうである」と称し、それが日本海軍の戦艦「土佐」に結び付けられ、軍艦島の名称が人口に膾炙していきました。

Unknown authorUnknown author Unknown, assumed official photographer as this a high-quality photo unlikely to be taken by an amateur and the IJN severely restricted professional photography of its ships after World War I., Public domain, via Wikimedia Commons

晴れて軍艦島の広告塔となった30号棟ですが、当時はまだ大半の炭鉱夫が粗末な納屋で暮らしていました。
大正時代の半ばからは朝鮮人や中国人も数多く送り込まれ酷使されます。

戦後、軍艦島の人口は爆発的に膨れ上がります。
これには1945年10月の復興資金の供給、1948年のGHQ主導における輸入砂糖の出炭奨励特配も関係しており、端島には鉄筋コンクリートの団地の他、幼稚園・学校・火葬場・寺・銭湯・パチンコ店・スーパー・遊郭など、生活に必要なあらゆる施設が造られていきました。

欧米の諺に「ゆりかごから墓場まで」というのがありますが、軍艦島は生まれてから死ぬまで、生活サイクルが島内だけで完結する極めて特異な場所だったのです。

こうして隆盛期を迎えた軍艦島。
しかし島内には厳密な階級制度が敷かれており、三菱の社員と炭鉱夫ではあからさまに生活のグレードが違いました。
過酷で危険な採掘に従事する底辺の炭鉱夫は、軍艦島におけるスラム「塩降街」での暮らしを強いられていました。
対照的に幹部クラスは高台の一軒家に住み、当時としては贅沢な個人風呂も所有していたそうです。格差社会の縮図ですね。

人口がピークに達したのは迎えたのは終戦から15年後、1960年(昭和35年)。
島の総人口は5,267人、東京の人口密度の9倍に上ります。

あらゆる宗派の葬儀を取り仕切る禅寺「泉福寺」、映画館「昭和館」、スナック「白水苑」などあらゆる施設が詰め込まれた軍艦島ですが、子どもがのびのび遊べる広さの公園だけはありませんでした。
深刻な土地不足故、団地の屋上に託児所が建設されたというのですからちょっとヒヤッとしますね。

軍艦島の衰退と廃墟ブーム

上質な炭鉱で栄えた軍艦島ですが、1960年代以降はエネルギーが石炭から石油に移行し、人離れが加速していきます。
1970年、三菱は採掘の終了を発表。端島炭鉱は閉山され、全ての住民が撤退しました。

そんな軍艦島に再び脚光があたったのは2005年(平成17年)以降。マスコミ限定で上陸が許され、端島の現在の様子がメディアで報道された事で廃墟マニアたちのホットスポットになります。

島内はコンクリートの建造物が老朽化しており崩落の危険が伴うものの、島の南側の見学用通路は安全と見なされ、2009年(平成21年)4月にツアーが解禁されました。

現在も軍艦島観光ツアーは組まれており、成人ひとり5000円と案外お手頃な値段で渡ることができます。
YouTubeで「軍艦島」「端島」を検索すると島内を撮った動画が大量にヒットするので、気になる方はぜひご覧ください。

元雨上がり決死隊のユーチューバー・宮迫も軍艦島に上陸しています。
軍艦島に魅せられたカナダ人写真家、Chris Luckhardt氏が撮った廃墟の様子も廃墟マニアの心をくすぐりますね。

軍艦島探訪で押さえたいおすすめスポット3選

ここからは軍艦島観光時に外せない、おすすめスポットを挙げていきます。
なお現在は立ち入り禁止となっているエリアもあるので、事前確認をよろしくお願いします。

地獄段

軍艦島一の繁華街、地獄段と端島銀座に面した階段。1号棟こと丘の上の端島神社まで続いており、大変長いので地獄のような階段、略して地獄段と呼ばれています。
祭りの日にこの地獄段を駆け下りてくる神輿が見ものです。

30号棟

軍艦島繁栄の先駆けとなった日本初の鉄筋コンクリート住宅。通称グラバーハウスと呼ばれ、当初は4階建てだったのがのちに7階建てに増築されています。
中央に吹き抜けが存在する構造で、階段や廊下がロの字形に配置されており、上から注ぐ光が箱庭のような幻想的な景観を描き出します。

端島神社

地獄段の先、丘の上にある神社。潮風を浴びてたたずむ石の鳥居と瓦礫が、寂寥とした雰囲気を醸し出しています。炭鉱事故の犠牲者の慰霊碑もあるので、手を合わせてみてはいかがでしょうか。

まとめ

以上、軍艦島こと端島の歴史と見所をご紹介しました。
廃墟マニアの心を掴んで離さないこの島は、様々な映画・漫画・小説の舞台に取り上げられています。

恩田陸「puzzle」、柳内大樹「軍艦少年」、皆川博子「聖女の島」など、気になる方はぜひこちらもチェックしてください。

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