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「玉砕」が初めて使われたの南方の「アッツ島」

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今では当たり前のように使われる「玉砕」という言葉。
初めて使われたのは、実は太平洋戦争の最中、1943年のアッツ島でした。

アッツ島の戦いは1943年5月12日から29日にかけて行われました。
アッツ島はアリューシャン列島にある北米に位置する島で、1942年に日本軍によってキスカ島と共に占領されました。

当初からこれらの北方の島々を占領確保することに関して、大本営・陸軍・海軍で統一した方針はありませんでした。このため、アッツ島からは一時、日本軍が撤退した時期もあったのです。

■ アッツ島を守る日本軍の高射砲
public domain

しかしその後アリューシャン列島周辺で米軍の動きが活発化すると再占領して陣地構築に取り掛かります。
アリューシャン列島周辺は濃霧や時化が多く、補給も部隊の補充もままならない状況でした。

そんな中、1943年多数の護衛艦隊に守られた米軍11000名がアッツ島に上陸したのです。
濃霧に遮られ、初日にあっさりと橋頭保を築いた米軍は翌日以降損害を出しながらも艦砲射撃と爆撃で確実に前進を始めました。

それでも日本軍守備隊は地形を活かして頑固に抵抗し、米軍に損害を与え続け、増援要請を行った米軍の司令官ブラウン少将は解任されています。

■アッツ島に上陸する米軍
United States, Office of War Information. [Public domain], via Wikimedia Commons

奮戦していた守備隊ですが大本営はアッツ島への増援中止を決定。
艦隊の派遣要請や増援部隊のやりくりを準備していた守備隊の上部組織、北方軍もショックを受けます。

この決定が守備隊長、山崎保代大佐に伝えられ、山崎は援軍を待つ持久戦でなく決戦に戦術を転換したのです。
この瞬間、アッツ島守備隊の運命は決まったと言えます。

1943年5月29日、野戦病院隊までも攻撃に加わり最後の300人による突撃が始まりました。
攻撃に先立ち、負傷者には手りゅう弾が配られ、重傷者は軍医隊が「処理」したと記録されています。

■ 山崎保代大佐
public domain

山崎大佐は日本刀と国旗を両手に持ち先頭を切って戦ったと両軍の記録に残されています。
日本軍の戦死者2638名、生存はわずか29名。

昭和天皇はアッツ島玉砕の報を聴き、受け取る人がいないことを承知の上でねぎらいのお言葉をアッツに送るように指示したと言われています。
こうして、日本陸軍公式の「玉砕」が起こったのでした・・・。

※写真はイメージです。

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