1994年、真夏の日本列島。
東京都心から287km南方に位置する伊豆諸島の八丈島にて、その奇怪な事件はおきた。
島でただひとつの町営火葬場で、職員が点検のために炉を開けたところ、炉内に大量の人骨が詰めこまれていたのだ。何者かに焼却された身元不明の仏は全部で7柱。
いったい誰が、なんのために?
島に古くから伝わる忌み話と重なって、八丈島ミステリーと騒がれた怪奇事件を振り返る。
あの蒼ざめた海の彼方で人骨騒動
いきなり本題から逸脱して恐縮だが、筆者が八丈島を訪れたのは、この事件の前の前の夏だった。
正直に言うと、事件前でよかったと思う。
さっさと本題に入ろう。
問題の7柱は大人6人と子ども1人で、死後10年から40年ほど経過したもの。いったん土葬された亡骸を掘り起こして焼却したことも鑑識の調べでわかっている。
火葬炉を使うには自治体の許可が必要——これは日本国民の常識だが、今回にかぎり届け出はだされていなかった。火葬許可証なしに死骸を焼くのは墓埋法違反である。
そして侵入経路。出入り口は厳重に施錠されており、扉が壊された形跡もなし。このことから、侵入経路は扉であり、侵入方法は鍵または合い鍵による開錠とみてまちがいはなかった。建造物侵入容疑も追加される。
では、それはいつだったのか。
この火葬炉を最後に使ったのは5日前の8月6日。これが事実だとすれば、7日から10日までのあいだということになる。が、実際には9日までの3日間と考えるのが妥当だった。なぜなら、炉内の温度が下がるまでは最低でも24時間を必要とするからだ。発見時には熱はすっかり冷めていたのである。
島民のあいだでさまざまな憶測が乱れ飛ぶなか、八丈島署が注目したのは島の改葬の風習だった。ここでいう改葬とは墓所を移すことではなく、土葬した遺骸をあらためて荼毘に付し、埋葬し直すという独特のもの。記録によると島内の土葬は80年代初頭より絶えているものの、改葬の風習はいまだ息づいており、そのための火葬の申請が少なからずあるという。
おおかた誰かが届け出をださないまま、亡くなった身内を改葬しようとしたのではないか。とにもかくにも、7柱の身元がわからないことには捜査は進まない。
しかし、故人を特定できるDNAを火葬骨から抽出することは事実上不可能。炉内の燃焼炎温度は約1200℃から2000℃にまで上昇する。交通事故現場や火災現場の燃焼遺体とはわけがちがうのだ。海外では時おり故人や歴史的人物のDNA型鑑定が報じられるが、あれは土葬骨だからできる芸当なのである。
警察は島じゅうの墓所をくまなく調べ、私有地にも調査の範囲を広げたが、どこを探しても新たに掘り起こした形跡は見つからない。
・・・あれ? ちょっと待てよ。よく考えると、お骨を火葬場に放置したのでは改葬の意味がないではないか。
さあ、行こうぜ 常春の島へ
八丈島には流刑の歴史がある。
流人たちは、ここで遠く故郷を思い、帰りたいという叶わぬ夢を抱きながら、この異郷に骨をうずめた。墓石なき野辺にひっそりと埋められた者もいたことだろう。
公式に八丈島へ遠島となった流人第一号は、豊臣家の重臣で、関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家。秀家はこの島で50年の余生を送り、破れた西軍の大名でもっとも遅くに没した。島では、ともに配流となった長男と次男の子孫が宇喜多姓、浮田姓を称して今に血脈を伝えている。最後の流人は探検家・近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵。文政9年(1826)に人を殺めた咎で八丈島に流された。
改葬の可能性が低くなると、今度は「流人の骨」「旧日本軍の骨」「人捨て穴の骨」「島外から持ちこまれた犯罪がらみの骨」といった仮説が生まれた。
このうち、流人と旧日本軍のふたつは「火葬骨は死後10年から40年のもの」という鑑定結果から外れる。では人捨て穴はどうか。人捨て穴とは、口減らしのために人を捨てた場所のことだ。その昔、八丈島ではすべてを自給自足で賄っていたために、食糧事情は安定していなかった。江戸時代中期にサツマイモが持ち込まれるまでは、たびたび飢饉に見舞われていたという。飢餓に苦しみ、人捨て穴に置き去りにされた者の骨を誰かが弔おうとしたのだろうか。
だが、この可能性も低そうだ。人捨て穴はいわくつきのスポットとして人気が高く、これまでに多くのマニアが訪れている。1994年まで未発見だった人骨があったのか、また40年前まで人捨ての風習が残っていたのかという点を考えると説得力がない。
では犯罪に巻きこまれた被害者説はどうだろう。重ねていうが、「死後10年から40年のもの」と解析された事実は無視できない。
これをふまえると、7人は殺害されたあと、少なくとも10年間は島内の墓所ではないどこかに隠され、1994年になって荼毘に付されたことになる。10年隠しおおせたなら、そのまま秘匿しておけばよいものを、あえて火葬した意図がわからない。仮に説が正しく、証拠隠滅のために焼いたとしたら、その目的は犯罪の露見を防ぐことだろう。不法侵入までして火葬して、あげくに放置するとは何を考えているのか。
そんななか、島に古くから伝わる怪奇伝承と結びつける地元住民も現れる。
7人坊主
その伝承とは、長く島で語り継がれ、「東山ではけっして口にするべからず」と教えられてきた「7人坊主」。要約するとこうなる。
江戸時代のことだった。上方から江戸に向かう船が難破して、島の海岸に7人の僧侶が流れ着いた。折悪しく島は飢饉で、ただでさえ食糧がない。島民に漂着者を受け入れる余裕はなかった。僧侶たちが放浪の末にたどり着いたのは、東山の集落だった。
ところが、村人たちは助けを求める彼らを追い払い、村へ入れないように柵や罠を仕掛ける。
「よそ者に恵んでやるほど楽じゃない」
さらには妖術を使うと言って僧侶たちを迫害し、ついには全員を殺してしまった。
不吉な出来事が相次ぐようになったのは、そのあとのこと。
夜になると白装束の僧侶がさまよい歩き、農作物は不作がつづき、家畜も次々と死んでいった。坊主の祟りにちがいないと考えた村人たちは、東山の頂上に塚を建てて怒りを鎮めようとした。
それでも7人の怨念は島に宿りつづけていたのだろうか。現在でも僧侶の霊の目撃談は少なからず報告されており、東山で彼らの話をしたり、悪口を言ったりすると、必ず災厄に見舞われるというのだ。
とはいえ、村人による惨殺伝承には多少の違和感も覚える。あたかもよってたかって僧侶をなぶり殺しにしたイメージが先行しているのは、過去のテレビ番組の取り上げ方の影響もあるのだろう。しかし、もともと八丈島は流人ですら温かく迎え入れる気風の島だと聞いた。
いろいろ調べてみると、島の住民が僧侶を拒絶した理由には「彼らが伝染病に罹患していたから」という説もあることがわかった。また7人の最期についても文献によって揺れがあり、山へ追いやられ、そこで村人たちを恨みながら果てたというバージョンもあった。
注目すべきは、正徳元年(1711)に島内でパンデミックがおきたという事実だろう。それは漂着した難破船に天然痘キャリアがいたためだった。
死亡者は翌秋までに1000人近くにものぼり、その際、感染者を遠ざけるために柵をもうけて侵入を防いだ村もあったという。
時代が時代であるだけに、離島で病が流行すれば島は全滅しかねない。感染が広がるのを恐れるあまり、やむなく7人を山に追いやったのであれば腑に落ちる。それでも7人が重苦のなかで死んでいったことに変わりはないのだが。
42年前の7名死亡事故
じつは、7人の祟りだと恐れられた出来事は焼骨事件が初めてではない。
それは昭和27年(1952)の林道建設工事中の事故だった。運よく九死に一生をえた作業員もいたなかで、7人が帰らぬ人となった。事故現場は僧侶たちが亡くなったとされる場所であり、死亡者もちょうど7人。
事故の直前、ある作業員が「そういえば大昔、このあたりで7人の坊さんが殺されたって話だが」と話題をふり、僧侶たちを小馬鹿にしたような掛け声をかけながら作業をしていたというのだ。まさにそのとき、土砂崩れはおきたのである。
死ぬのは7人。「7」という数字の符合。
火葬場焼骨事件ではふたたび数の符合がおきてしまった。身元不明の人骨という不気味さもあいまって、島民の心胆を寒からしめるには十分だったにちがいない。
無縁仏は黙して語らず
結局、捜査は進展せずに事件は迷宮入りとなった。大きな謎はいくつも残されたままだ。
誰のしわざか。目的はなにか。なぜ骨を放置したのか。誰のお骨なのか。それは火葬前はどこにあったのか。
侵入者が鍵か合い鍵をもっていたことは疑いようがない。だとすれば、鍵をもっていた数人の職員と、過去に鍵を手にしたことのある人間、そしてその周辺の人物を一人ひとり調べていけば、犯人の絞りこみはできたのではないだろうか。それができなかった理由を知りたい。
本当は真相がわかっているのに公表しなかった、という可能性はありうるだろうか。
関与した人物や焼骨の事情は、じつは島民は知っている、ということはないだろうか。
氏名不詳の7柱は町役場の整理番号がつけられて供養され、浄土宗の寺に無縁仏として埋葬された。
八丈島ミステリーの真相もまた、永遠に土に眠る。
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