青森県の中央に位置する八甲田山は複数の岳からなる火山群であり、「八甲田山」という名の単独峰ではない。正式名称を「北八甲田連峰」という。
明治35年1月、この名峰で日本陸軍史に残る大事件がおきた。雪中行軍中の一個連隊が猛吹雪に進路を阻まれ、210名中199名が遭難死したのだ。遭難部隊は日本陸軍第8師団青森歩兵第5連隊。
あれから120年、吹雪の惨劇を直接知る者はもういない。それでも遭難者にまつわる怪奇現象は後を絶たない。
浮かばれない兵士たちの魂は、おのれが死んだことも知らずに今も行軍を続けているのだろうか。
山の神が怒る日
山の神が怒る日——。
それは、地元のマタギたちの間に伝わる禁忌だった。毎年1月21日前後は山の神の日とされ、八甲田は大荒れに荒れる。足を踏み入れたら最後、二度とは戻れない白い地獄へと変貌する——。
八甲田雪中行軍遭難事件は当時から全国的なニュースとなり、遭難発覚後、新聞は連日のように遺体発見や遺族による葬儀のようすを報じつづけた。
一方、199名もの犠牲者をだしたこの事件は多くの不気味な談話も生みだすことになった。死んだはずの将校たちが八甲田に現れたという怪聞である。地元青森では事件直後から、「兵士の行進の足音がする」「行軍に参加した夫が帰還した」といった心霊現象が相次いで報告されていたのだ。
行軍する軍靴の音
もっともよく知られるエピソードは、『八甲田山 死の彷徨』の著者・新田次郎の取材ノートに残されていた話だろう。
それは遭難事件からしばらくたったころのこと。青森連隊駐屯地の衛兵詰所にて、夜になると、大勢の人間の足音が聞こえるようになった。ザク、ザクと雪を踏みしめ、こちらに向かって規則正しく行進してくる軍靴の音。それはまぎれもなく雪中行軍隊の音だった。噂は広まり、衛兵を震え上がらせたため、ある夜、津川連隊長が詰所に待機して亡霊たちを待つことにした。そして、まだ夜も明けやらぬころ、彼らは本当にやってきた。連隊長は雪原に向かって一喝する。
「雪中行軍隊の勇者たちよ、よーく聞け! 諸君の死は無駄ではなかった。見事な最期であった。来たる戦役において、軍の損失を未然に防いだ功績は大きい。寒冷地の装備は大幅に改善されることになったぞ。喜べ、諸君は戦死者と同列にみなされ、英霊として靖国に合祀されることが決まったのだ。迷ってはならぬ、心安く眠れ! ここは諸君のいる所ではない。帝国軍人にあるまじき未練なふるまいは、断じて許さん!」
そして軍刀を抜き、号令をかけた。
「青森歩兵第5連隊! 回れー右! 前へ進め!」
すると軍靴の音はぴたりと止み、八甲田に向かって遠ざかっていき、それきり二度と聞こえることはなかったという。
このエピソードの影響か、行軍の犠牲者が靖国神社の合祀対象となったという話が流布しているが、これは正しくない。
新田次郎は取材で現地を訪れた際、全身が凍結した兵士がすうーっと前を横切る夢をみたという。新田に資料を提供した小笠原孤酒(おがさわらこしゅ)も、凍死した兵が何度も夢にあらわれ、名を告げられて、自分のことを正しく書き残してほしい懇願されたと明かしている。
「今帰った、今帰ったぞ」
昭和48年刊行の『青森県の怪談』にも同じような説話が記されている。
ある吹雪の夜、兵営の歩哨がどこからともなく聞こえてくる不明瞭な人声に気づいた。耳をそばだてると、それは「寒い、寒い」という悲しげな声のときもあれば、「歩調とれ、かしらー右!」という勇ましい号令のときもあったという。
凍死した兵士の幽霊が現れる怪聞は、事件発生直後からささやかれていたようだ。同年2月6日の日刊紙『万朝報(よろずちょうほう)』には、「凍死軍隊の幽霊」と題した記事が掲載されている。その内容についてもご紹介しておこう。
1月24日、行軍隊が無謀にも未明に第一露営地を出発し、暗闇の八甲田を死へ向けて彷徨していたまさにそのとき、第5連隊の兵舎の電灯が突然消え、また点くという不思議な現象がおきた。まもなく廊下を歩く兵士たちの靴音がして、「今帰った、今帰ったぞ」という声がする。本当に帰ってきたのかと思って外をみても、人影はない。同時に靴音も消えてしまった。
人のいない部屋から鉄砲を持ちだす音や、雪原から軍歌の歌声が風に乗って流れてくることもあったという。
同記事では、翌25日の夕刻に興津景敏大尉の官舎の外で外套の雪を払う音が聞こえてきたことも伝えている。
夫人が驚いて玄関に行くと、そこに興津大尉が立っていて、「おい、今帰ったぞ」と言う。ところが火をおこしているうちにその姿は消えてしまった。
興津大尉は行軍中にひどい凍傷にかかり、神成大尉が「天は我らを見捨てたらしい」と吐き捨てた25日に凍死した、約30名のうちの1人である。
八甲田からかかってきた謎の119番通報
そして平成26年、『東奥日報』がある怪事件を報じたことで、八甲田山の亡霊譚にふたたび注目が集まった。
5月17日深夜のこと、青森の消防に一本の通報があった。しかし電話の向こうは雑音が激しく、ザーザーというノイズが聞こえるのみ。通報者の安否を危惧した青森消防本部が発信元を特定すると、それは八甲田山にある別荘の固定電話だった。
消防隊員が現場に急行したところ、別荘は真っ暗で人の気配がなく、施錠されており、ダイヤル式の黒電話の受話器が置かれたまま。発信元は確かにこの電話であったが、誰が通報したのかはわからずじまいだった。のちに電話線トラブルによるものと結論づけられたが、別荘は遭難現場にほど近く、過去に青白い光や軍服姿の男が目撃されたこともあって、兵士の霊が助けを求めて通報したのではないかという噂が流れた。「助けてくれ、こんなところで死にたくない」という残留思念がもたらした現象だったのだろうか。
雪中行軍隊の霊に遭遇した若い男女
亡霊たちに遭遇する人々は、120年の時を経た今も後を絶たない。体験談で有名なものが、雪中行軍遭難記念像の見学にきた若いカップルの女性が精神に異常をきたしたという話だろう。『現代民話考2 軍隊・衛兵検査・新兵のころ』を参照しながら、そのあらましを記しておく。
ある夜、若いカップルが馬立場にある遭難記念像を訪れた。この場所は第二露営地と第三露営地の中間にあたる。銅像のモデルは生還者の1人であり、仮死状態で立っているところを発見された後藤房之助伍長(実際の発見現場は銅像よりも数キロメートル青森寄り)。
銅像を見学後、女性は近くのトイレに立ち寄った。男性は車で待っていたが、ふと、遠くから近づいてくる足音らしきものに気づいた。
暗闇に目をこらすと、明らかに時代がかった軍服を着た男たちが隊列をなしてこちらに向かってくる。肝をつぶした男性は、とっさにエンジンをかけてその場から逃げだした。しばらくして落ち着くと、置いてきた女性のことがひどく心配になった。地元の人に一緒にきてもらい、銅像付近に戻ってみると、軍服姿の男たちは消えている。男性はトイレに向かって呼びかけたが、返答がない。恐る恐る入っていくと、女性は気を失っており、想像を絶する恐怖のためか髪が真っ白になっていた。
このほかにも「山のなかで軍人に道を訊かれた」「肩をつかまれた」といった体験談は多く報告されている。近年は現地を訪れた観光客が霊と遭遇するケースが増えているようだ。
兵士の霊が自宅までついてきた
オカルティックな恐怖体験を集めた怪談百物語のたぐいにも八甲田山ネタは頻出する。
夜の八甲田に肝試しにきていた大学生の車が突然のエンジン不調で立ち往生してしまい、大勢の兵士に取り囲まれた話がある。
運よくエンジンは生き返り、彼らは必死に亡霊を振り切って弘前のアパートにたどり着く。しかし、真の恐怖を味わうのはこのあとだった。
ふと気づくと、八甲田で聞いた音がする。
ザッザッザッザッ——。
それは、あの足音だった。音はしだいに近づき、階段を上がり、ついにはドアをすり抜けて部屋のなかに入ってきた。
ふたたび霊に取り囲まれた4人は、あまりの恐ろしさに身動きもできない。すると、軍服の男が言った。
「こいつの左腕がほしい」
「俺はこっちの男の脚だ」
「わしは右手がほしい」
4人は恐怖のあまり失神し、気づいたときには夜が明けていた。
これは夢だと自分に言い聞かせようとしても、部屋に残った泥靴の跡がそれを打ち砕くのだった。
まもなく彼らはそろって体調を崩し、大学をやめてしまったという。
過去の凄惨な記憶が深く刻まれ、新たな怪奇現象が生まれつづけている八甲田山。
おそらく青森第5連隊の亡霊は今もそこにいる。
これからも人々は八甲田に彼らの亡霊をみるだろう。それは白の地獄を永劫にさまよいつづける、無念の魂にほかならない。
※画像はイメージです。
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コメント一覧 (2件)
読み応えがあって、面白かったです。この遭難事故を初めて知ったのは映画だったと思いますが、三國連太郎(だと記憶していますが誤りだったらすみません)の鬼気迫る演技があまりに印象的でした。どんな時代も自然をなめちゃいけませんね。
映画は見たことがありませんが真実とは幾分異なると聞いた記憶があります。
この凄惨な事故を明確に知ったのはいつだったのか確かには覚えていません。ただ、山怪と銘打つ動画でその詳細を改めて聞き知り、恐怖よりも遥かに強い悲しみに滂沱の涙でした。
百数十年も経た現在でも尚、迷い彷徨しておられるとしたら、まさしく救われぬ悲劇という他はありません。
どうかどうか英霊の救済を、魂の安息を齎して差し上げてください!!!!