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弓月君と秦氏を考察

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弓月君が率いる集団が日本に渡来し、秦氏(ハタウジ)として日本の文明の発展に大きく寄与したことはよく知られています。
秦氏の渡来を考察してみました。

目次

弓月君と秦氏

日本書紀によると応神天皇14年に弓月君が百済から渡来し、弓月君が率いる120県(1万人以上と言われています)を越える人々が、新羅が邪魔していることにより加羅に留まっていると応神天皇に述べた。葛城襲津彦が加羅に遣わされたが解決しなかった。
応神16年に精兵を引き連れた平群木宿禰、戸田宿禰らを加羅に遣わすことによって人々はようやく日本に来ることができた。

ここで応神14年というのが西暦何年に当るのかがはっきりしない。参考になるのは、高句麗の広開土王碑(好太王碑)の碑文であり、応神天皇の先代にあたる仲哀天皇(あるいは、摂政神功皇后)の代に高句麗と交戦していることを考慮すると、西暦400年と西暦425年の間ではないかと思われる。

弓月君は中央アジアにあって遅くとも4世紀には成立していたと考えられる、弓月国の首長のような地位にあったと言われており、日本に関する情報を入手して分析し、移住を決意したものと思われる。そのことは、渡来後の秦氏の活動状況から推量でき、この時代として秦氏の情報収集能力には驚くべきものがある。

渡来した訳

理由には宗教的な動機付けがあったのかもしれない。この時代、中国は三国時代が終わり、未だ隋による統一には至らず、戦乱が多発した。「万里の長城の造役負担に耐えられなかったので云々」とあるのは、後からの移住の理由付けであろう。

応神天皇による秦氏渡来に対する強力なバックアップを考えると、大和王権側は秦氏の技術力を知っており、ある程度、ことがらをみぬいていたのかもしれない。

日本に帰化した後の秦氏に関係する最も目立つことは、極めて多数の八幡神社の設立である。現在、末社などを含めその数は万を超え、宇佐神宮を総本社としている。稲荷神社も設立し、これらは尋常の努力による結果ではない。

渡来した秦氏は、日本の権力者とは極めて慎重に接し、政治の場では目立たないように努めていることが判る。
水利、灌漑、建築、織、金属の精製や加工など多方面において、日本にとってはかけがえのない優れた技術を提供していている。仏教導入に尽力中の聖徳太子を支えていたという。

※画像はイメージです。

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