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幕末に日露合同で作った帆船ヘダ号?

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江川英竜を調べていて見つけた話が面白すぎてご紹介します。
ペリーの黒船来航で開国となった話は有名ですが、そのあとほかの列強も次々とやってきて条約を結んだんですよね。
ロシアもペリーのすぐ後に日露和親条約締結交渉でプチャーチン提督率いるディアナ号で来航しました。

しかし下田沖で碇泊中に、安政東海大地震が勃発してディアナ号は津波で大破、修理で回航中に嵐にあって沈没してしまったんです。
このときロシア船では波にさらわれた日本人数名を救助、船医が看護したはなしもあったそう。

目次

安政元年(1855年)1月

■「ヘダ号」進水式を描いた絵Anonymous Japanese author, 1855 / Public domain

安政元年(1855年)1月のことでした。
プチャーチン提督は、ロシアに帰国するために日本で洋式船を新しく作ることを決意して、幕府の同意を取り付けて戸田村(へだむら)で建造することに。

設計はロシア人乗員が担当し、日本側が資材や作業員などを提供するなどの支援の代償に、完成した船でロシア船員たちが帰国後、日本側へ新造した船を譲渡する契約。
幕府は、韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)と勘定奉行の川路聖謨を日本側の責任者に任命して、日本中の船大工を総動員してと、日露初の合同作業で帆船を製造することになったんです。

3千人の戸田村に500人のロシア海軍兵がやってきたが、日露の共同作業は順調にすすんで、起工から約3カ月後には無事に進水式を終え、建造地の戸田(へだ)にちなんで船名を「ヘダ号」と命名。
全員は乗れず他の船に分散したが、ヘダ号はその後無事にペテルブルグへ帰還しました。

ヘダ号の同型船は君沢形と呼ばれるようになり

■君沢形一番船「ヘダ号」Anonymous Japanese painter, 1855 / Public domain

そして、ヘダ号の同型船は君沢形と呼ばれるようになり、建造に携わった日本の船大工たちはその後、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍し、オランダへ留学した人もいたりと、日本の造船技術の基礎になった出来事だということです。

しかしペリー来航直後の開国するかどうかもめてたような時代にですよ、ロシア語もわからないのに和気あいあいと船を作るなんてすごい。
そして担当の川路聖謨とロシアのプチャーチン提督との間に信頼関係が生まれて、お互いを尊敬しあっていたという話もあるということで、船が難破して困っている人を助けるのに言葉はいらんと言うことなのかと感動してしまいました。

この日露友好の物語は語り継がれていて、今も伊豆の戸田ではイベントが行われているそうです。

※画像はイメージです。

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