10年で捨てられた長岡京、結界が張りめぐらされた平安京

794年の遷都以降、平清盛の福原遷都を除いて、およそ1100年のあいだ日本の都城として栄えた平安京。
「なんとステキな平城京」「鳴くよウグイス平安京」の語呂合わせは有名なので、平城京のつぎが平安京と記憶している方もいるだろう。じつはこの二都のあいだには長岡京という都が存在した。
多くの困難を乗り越えて造営した長岡京は、なぜ短期間で打ち捨てられたのか。また「平安京」の名にこめられた祈りとは何だったのか。

幻の都・長岡京

延暦3年(784)、大和の国、平城京。
桓武天皇はうつうつと悩んでいた。母が渡来人だからではない。奈良に大仏ができてからというもの、なにかと幅をきかせる仏教勢力がうっとうしくて我慢ならなかったからだ。おまけに平城京は河川が乏しく、地理的な弱点も山積みだった。父である先帝の光仁から、やっと天智系皇統が復活したというのに。朕(ちん)は天智のひ孫なのに。
「種継。種継はいるか」
藤原種継(たねつぐ)。桓武の信任が厚い、藤原・式家の公卿である。こちらは藤原不比等のひ孫にあたる。

そもそも奈良時代の天皇は、ずっと天武系の皇族だった。天智系による皇位継承のチャンスはなくなった――それが天武朝の不文律であった。これを突き崩したのが稀代の策士・藤原百川(ももかわ)である。彼の奇策により、先帝の光仁は奇跡的に即位できたのであった。それゆえ、光仁の息子である桓武が百川と同じ式家の種継を重用するのも無理はない。

「お呼びですか」
「朕は大和をはなれたい。政治から寺院勢力を排除するのだ。新たな天智の都をつくり、刷新を図るのだ。遷都についてどう思うか」
「よくぞご決断なさいました」
「うむ。新しい都はどこがよいだろう。第一条件は大きな川だ」
「でしたら、山背国の長岡の地がよろしいかと」
「長岡か。おまえの母方、秦氏の里に近いな。協力も得られよう。よかろう、長岡を視察せよ。おまえを新京の造宮使に任命する」
「はいっ!」

長岡には桂川や宇治川などが合流する大きな川があり、平城京より物資の運搬に適していたほか、水が豊富なため衛生的でもあった。
こうして桓武天皇は長岡京への遷都を敢行する。しかし、平安な日々は続かなかった。

藤原種継暗殺事件

長岡京は現在の京都府長岡京市、向日市、京都市西京区にまたがる都で、平城京・平安京に匹敵する京域をもっていたことが発掘調査でわかっている。

桓武天皇は諸官庁や門の完成を待たず、延暦3年(784)11月にあわただしく遷都した。しかし、遷都によって既得権益がおびやかされる人々がいるのも事実。大和の旧勢力や仏教勢力はこの期におよんで異を唱えるありさまだった。造営は責任者である種継を中心に反対勢力に配慮しながら進められた。

ところが翌年9月23日の夜、とんでもない事件がおこる。種継が造営現場で闇討ちにあい、矢で射られたのだ。凶報は、すぐに大和にいた桓武天皇に届いた。天皇が長岡京に戻ったとき、種継はまだかろうじて息があった。

「種継!」
「ご安心ください……天智の都は、まもなく完成です……」
「死ぬな!」
種継はにっこり笑った。満足そうな笑顔だった。そして静かに息をひきとった。

まもなく犯人たちは逮捕された。首謀者である大伴継人と暗殺に加担した者たちは斬首され、すでに他界した大伴家持も黒幕とみなされて死後の厳罰が下された。大伴家持といえば万葉集の編纂者として文人のイメージが定着しているけれど、じつは生粋の武人であり、桓武天皇に抵抗し続けた大和旧勢力の筆頭。

ところが事態はこれでおさまらす、さらなる悲劇へ発展する。なんと皇太子(皇太弟)・早良親王(さわらしんのう)に事件関与の疑惑が浮上したのだ。

皇太子・早良親王へのとばっちり

早良親王は桓武天皇と母を同じくする実弟で、兄弟仲も良好だったといわれている。桓武には皇子がいないわけではなかったが、皇太子は弟だった。後継者に弟が選ばれたのは、幼帝の即位を回避するためとも考えられるし、先帝の光仁が譲位の条件として早良の立太子を提示したとも考えられる。早良親王は清廉潔白な人格者だったらしく、悪い評判は見あたらない。

「早良の性格は兄の朕がいちばんよく知っている。謀略など企む男ではない」
「いいえ。弟君に疑いあり、このことが問題でございます。かつて天智天皇は、弟君の天武天皇に情をかけて皇子を殺されました。あなたさまの後継者は早良親王にあらず。あなたさまの皇子でございましょう!」
「……」

早良親王は廃位されて捕らえられ、乙訓寺に幽閉された。以降は絶食し、命をかけて身の潔白を訴えたが、ついに淡路へ送られる途上で力つきる。享年36。遺体はそのまま淡路へ送られて葬られた。早良親王が実際に事件に関与していたかどうかは不明である。
結局、桓武は種継の命と引き換えに反対勢力の粛清と第1皇子の立太子というプレゼントを得ることになったわけだ。

早良親王の祟り

案の定、祟りとしか思えない怪異が長岡京でおこりはじめた。日照りによる飢饉、かと思えば大雨で河川が氾濫。ネズミが大量発生して疫病も流行した。そして夫人、皇后、母の病死。皇太子・安殿親王の心身の病。

まさに災厄やまずという状況が人々の恐怖心に拍車をかけた。困りはてた桓武がすがったのは陰陽師。すると、これら一連の凶事は早良親王の怨霊によるものという託宣が下される。鎮魂の儀式を執り行い、「崇道天皇」を追贈し、遺骸を大和に移葬した。

「今一度、新たな都をお造りになってはいかがでしょうか」
和気清麻呂に進言されて、桓武は考えた。このままでは徳のない天皇だと民衆は思うだろう。いや、すでに帝の器ではないと思われているかもしれない。
長岡京は廃都が決まり、東北にあたる地に平安を求めることになった。

平安京に張りめぐらされた結界

遷都の詔が下されたのは、種継が長岡の地を提唱してから10年後の延暦13年(794)だった。新都の名は「平安京」。もちろん長安を意識したものだろうが、長岡京が平安ではなかったからこそ平安を願わずにはいられなかった桓武の祈りもこめられていただろう。当初から早良親王の怨霊を封じる目的もあったはずで、悪疫が都に入らないよう万全の策が講じられている。

この地が選ばれた理由のひとつに、陰陽道にもとづく四神相応に合致していたことが挙げられる。玄武(北)の山、青龍(東)の川、朱雀(南)の池、白虎(西)の道は、それぞれが船岡山、鴨川、巨椋池、山陽道。四つの神獣は結界となって、王城を守るバリアの役目をはたした。
さらに多くの神社仏閣が要所要所でにらみをきかせ、霊的守護を固めている。たとえば鬼門の比叡山に延暦寺、裏鬼門に石清水八幡宮。肝心なのは、当時の人間が人や自然を超越した霊威を信じていたことだ。

ところで、薨去後に「崇道天皇」になった早良親王。
実際には即位していないため、もちろん歴代天皇にはカウントされていない。

※画像はイメージです。

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