「兵士は起つ 自衛隊史上最大の作戦」を読んだ

2011年3月11日。
まだまだ多くの日本人の記憶に生々しく残るあの日、地震と津波に襲われた東北の地で何があったのか。
本書では、その発災直後に動き出した部隊と、また単身被災しながらも奮闘した数々の自衛官たちの姿を綿密に取材してまとめ上げた記録の一冊です。

千年に一度の日

陸上自衛隊多賀町駐屯地に所属するA二等陸曹は勤務空けに仙台市内でマグニチュード9を超える壮絶な地震に遭遇。
多賀城に戻り、娘を学校から自宅に連れ帰ったところで駐屯地に戻ろうとし、砂押川の川底が見えるほど水が引いているのに気づいて、津波の到来を予測しました。
東北の地に生まれ育った者として、かつて押し寄せた津波の教訓を知っていながらも、想像を超えた何かが起こる、と予感するほど、その光景は異常なものだったのです。

実はA二曹の経験談は、某テレビ局が放送したドキュメンタリーでも報じられたことがあり、その名前は地元ではよく知られています。
本書でその名前を再び目にした時、さらに読み進めていくうちに、テレビで語られていたよりもさらに壮絶な経験があったのだということを知りました。
まさに“千年に一度”の大災害の中で、彼自身が生き延びたことすら奇跡だったのです。

自衛隊は「平成の日本を支配する経済の論理からは最も遠い所に位置する、愚直そのものの組織」と著者は述べています。
来るかもしれない、<いつか>が、きょうであってもあしたであってもいいように、その来るか来ないかわからない、<いつか>のために備えている、ある意味、無駄を無駄と思わない、それが自衛隊なのだと。

あるものは地震のための災害派遣の準備に奔走する多賀城駐屯地の中で、あるものは移動中の車中で、そしてA二曹は職場に戻ろうとバイクに乗っているさなかに、その黒いうねりとなった津波に呑み込まれるのです。

時系列的に紐解かれ、綴られていくその様子は、文字と文章をビジュアルに変換することすら難しいほどの困難な状況でした。
CGで再現したとしても、嘘くさいと思われてしまっただろうその恐ろしい事態が目の前にあったら、殆どの人は体がすくみ上って動けなくなることでしょう。
しかし、“自衛官”である彼らは違っていました。

そのなかにあって「個」として「組織」として最大限にしうることを即座にみつけて動き出していたのです。
それこそが、自衛隊の存在意義であるかのように___。

津波の中でA二曹に救われた男性は、その後も彼の名前を繰り返し書き付けていました。
命を救ってくれた彼のことを忘れないために。
その日、地震と津波、そして火災までが発生した街の中で、A二曹と同様に奮闘した自衛官と、彼らに救われた少なくない市民たちの体験と証言は、埋もれさせてはいけない大切な記録なのです。

白いリボン

東松島市にある航空自衛隊松島基地には、こうした災害の時にまっ先に飛び立つはずの救難ヘリを擁していました。
そこは、日本三景として知られる松島海岸から、石巻へとなだらかに続く海岸線に平行につくられた滑走路と、戦闘機の操縦を学ぶための教育隊があり、何よりも日本でもっとも有名な部隊「ブルーインパルス」の本拠地としても知られていた基地です。
華やかな表舞台から最も遠いところにいる救難隊は、本来は航空救難(自衛隊機の事故など)に備えてひたすら待機することが任務の主眼となっています。
そのために訓練を重ねるなかで、警察・消防・海上保安庁・防災ヘリなどには出動できない困難な状況にも対応できるように技術を磨き、今では雪山での事故や漁船の遭難などに際して災害派遣を命じられればどこへなりと飛んでいき、最も過酷な状況下で人を助ける「最後の砦」として知られるようになりました。

しかし、3月11日には折りからの降雪という悪天候で、教育用のF-2Bのフライトも含めて発災前から全てキャンセルされており、地震が収まったからと言ってすぐに飛び立つことはできなかったのです。
なぜなら、地震の余りの揺れによってローターが接地するほどに揺さぶられて機体がバウンドしていたという証言もあり、エンジン含めてその状態を点検をしなければならず、さらに、同様に強震に見舞われた滑走路は隅々まで人を歩かせて目視でその状態を確認しなければ、離発着が再開できる見通しは無かったからです。

いつ津波が到達してもおかしくない状況にあって、その危険を冒すことはできない、という判断がなされる中で、しかし、救難隊の隊員らに対しては必要な装備を身につけ、さらに機材を確保したうえで避難せよ、との指示がなされたのです。
かつて、地震直後のあわただしい避難の際に、パイロットがヘルメットなどの装備を持たずに逃げたことで、後日の飛行再開に当たり、必要な装備が不足して困難を極めたという体験談を知っていた飛行班長の指示は、後の活動再開時に大いに役立ったのだと松島救難隊の佐々野隊長は述懐しています。
この時に救難員(メディック)や整備員らがかき集めて確保した無線機やライト、ロープなどの機材やランタン・固形燃料、寝袋などの私物を含めたサバイバルキットが後に大きな力になりました。

誰に言われるまでもなくそうしたものを持ち出したメディックの、まさに“生存のプロ”としての嗅覚は正しかったのです。
航空自衛隊の隊員でありながら、陸上自衛隊のレンジャー課程、さらに習志野の空挺部隊で徹底的に扱かれた救難員らは、陸海空全ての経験と技術を生かした救助活動を行えるオールラウンド・レスキューなのです。
しかしこの日の地震は、そんな彼らをして、すぐに立って歩くことすらままならないほどの強烈なものでした。
午後4時を過ぎて津波が基地を覆い、全ての航空機が無残に押し流されていく中で、家族のことを思う者もありました。
その地に住まい、働いている彼らもまた、全て等しく“被災者”だったのです。

日が落ちて闇に包まれたころ、百里救難隊からUH-60Jが飛来し、津波後に初めてのコンタクトが行われました。
所属は違えども、同じ分野で長い間働いている者同士として、メディックらは危険極まりない闇の中での作業に際し、淡々とその任をこなし、翌日の夜明けに備えたのでした。
はたして、12日の朝。
空自だけでなく、被災した多くの陸自の隊員らも夜明けとともに動き出していました。
停電によってほとんどの情報が遮断されていた被災地は、無残な状態となっていたのです。
九州と同じく、東北も多くの自衛官を輩出している土地です。

彼らはその土地で生まれて育ち、そこに希望して勤務しているケースが多いのです。
そうした者らにとって、馴染みのある土地が津波にさらわれて瓦礫の山に、またあらぬ場所に湖が出現したようになっており、車が転がっている、その光景はむごいものだったでしょう。
その中に、白い吹き流しのような細い布が水の上に浮かんでるのが見えた、と言います。
「どうしてあんなところに白いリボンが浮かんでいるのだろう…」
目撃した中隊長は怪訝な顔つきをしていたと言いますが、その次の瞬間、その見間違いに気付いたのです。
白いリボンに見えたのは、津波の言語を絶する威力によってねじ曲がったガードレールでした。
それは、人知を超えたこの災害の象徴のように見えたことでしょう。

正しくこわがった男たち

東日本大震災と、福島第一原子力発電所の事故は切り離せない事象です。
発災直後、その爆発が起こる前から、大宮にある中央特殊武器防護隊(中特防)の隊員らは福島に入るべく準備を進めていました。
この部隊が日本に広く知られたのは1995年春の地下鉄サリン事件でした。
彼らは津波によって危険に曝された原発に突発的に起こるかもしれない“何か”のために、発災後即座に動き始めていたのです。
その行き先は原発。

おそらく長期にわたる派遣になるだろうことを見越して、連絡が取れなくなっているだろう家族らに、部隊から直接伝令のように人を送ってその説明をさせていた、というのは殆ど知られていないことです。
そうした気遣いによって、現場に向かう隊員らが心置きなく任務を遂行できるように、という…それは配慮でもあり、いかに事態が危機に瀕していたかということへの裏返しでもあったのです。

その予感は現実となり、震災発生翌日の12日には一号機の建屋が水素爆発、そしてその二日後の14日には三号機にも同様の水素爆発が起こり、その際には現場近くに展開していた中特防の4名が負傷する事態となりました。
その時、自己完結する部隊ならではの対処が既に可能であったことが幸いし、即座に除染と手当てが行われたのです。

それは、放射能の特性を知り尽くし、長きにわたって訓練と教育をし続けてきた中特防であればこその対応だったと言えます。
「放射能を正しくこわがっていた。だから正しく防護もできているし、正しく躾も徹底されている」とは部隊を率いる幹部自衛官の言葉です。
その強烈なまでのプロ意識が、一人の死者を出すことなく作戦を遂行できたのです。

放射能に油断することなく、かと言って、こわがりすぎもせず、最前線に冷静に立つことができた___その平常心を支えていたのが、プロとしての自負だった、と。
その自信から、家族に対しても「正しく伝える」ことをした、というのです。

みどころ

本書のシリーズの一冊目「兵士を見よ」の中に「同世代の恥辱」という文言がありました。
後にノーベル文学賞を受賞することになる新進気鋭の作家が、防衛大を志願した同世代の若者たちを貶めた言葉です。
そして政府のトップが自衛隊を称して言ったのは「日陰者」。
言った側は忘れたかもしれないこれらの言葉は、この組織に対して、そしてその後ろに存在している家族らの大きな心の棘となった、と著者は書いています。
その作家は震災後に脱原発のムーブメントにおける旗手となりましたが。
国家存亡の危機に於いて、その「恥辱」と呼ばれた世代の後継者たちが身を挺して最悪の事態を避けるために奔走し、東北の各地でまさに戦ってきたことに対して、何のアクションも起こしていないのです。

まさに“愚直”なまでに、任務に邁進していた人々の姿がそこにありました。
東北の部隊で災害派遣に出動した自衛官たちは、等しく自らも被災者でした。
崩壊している自宅の様子を見に帰ることもできず。
残してきた家族がどうなっているかもしれないままに現場に出ていたものも少なくありません。避難している家族と会えるまでに長い時間を要した、という者も沢山いました。

家族も、そういう仕事である、ということを理解しており、ことに子供を抱えた配偶者たちは、じっとその時期を耐えたというのです。
「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる」
これほどの規模、そして長きにわたって彼らが動員された作戦はかつてなく。
しかし長きにわたった雌伏の時をひたすら研鑽に務めていたおかげで、それがたとえ後手であっても出来る全てを出し尽くした___まさに、この東日本大震災に対する災害派遣、そして被災地の復興支援は“史上最大の作戦”だったのです。

「自分より、国民の命」
妻の前でそう口にした自衛官がいました。
彼は、津波の濁流の中でまさに自分自身の危険を顧みず少年と女性らを助けた、本書の冒頭に登場する中隊長でした。
発災から一週間後の3月18日で既に10万人の自衛官が被災地に派遣されていたこのとき。
その一人一人の胸の内にあったのは、おそらく同じ思いであったはず。

“戦線”は拡大し続け、収束するまでに数か月を要したのです。
この時期を境に、自衛隊に対する評価は大きく変わりましたが。
その実、変わらないものがあります。
「国民の負託にこたえる」その思いで、彼らは今もなお、いつ起こるかもしれない“有事”に備え、日々を生きているのです。

(C) 兵士は起つ―自衛隊史上最大の作戦― 杉山隆男 新潮社

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