歴代天皇にみる「〇徳」の名前に隠された意味とは?

「〇徳天皇」というワードで真っ先に思い浮かぶのは誰だろう。

有名どころは、宮内庁が大仙陵古墳の被葬者に治定した仁徳天皇、または大怨霊の崇徳天皇、そして平家一門と壇ノ浦に沈んだ幼い安徳天皇だろうか。あるいは即位こそしなかったものの、絶大な認知度を誇る聖徳太子を挙げる人がいるかもしれない。

皇紀2680年の長い歴史のあいだ、「徳」の字が奉られた天皇はわずかに9人。
気になるのは、本来なら最高の称号といえる「徳」の追贈であるにもかかわらず、彼らには非業の死という奇妙な符合がみられることだ。

慰霊のための美称や美談

「日本の歴史は怨霊信仰の歴史」と言う研究者がいる。
明治時代までは女性の水死体が発見されると、その容貌に関係なく新聞は「美人」と報じたという。理由は霊を慰めるためだ。

世界三大美人といわれる小野小町の伝承も、この風習にならっているという説がある。本当のところは身を崩して病に苦しみ、断崖から身を投げたというのだ。
そもそも平安時代には、高貴な女性は不特定多数の人にそうそう顔をさらしたりはしなかった。小野小町が美女だったというのは、あくまで伝説にすぎない。不幸な晩年が彼女の真実だったとすれば、その実像は掘り起こしてはならない事実なのかもしれない。

天皇の「徳」の文字にも、この掘り起こしてはならない事実が隠されている。

天皇の諡号(しごう)は崩御後に贈られる

その前に、天皇の名前についての話を少し。

天皇の死後の称号には諡号または追号がある。
諡号とは生前の功績や徳行を表す名前であり、追号は住まいだった宮や御陵、元号などからとったもの。追号は天皇が政治の実権を握らなくなった時代に多くみられ、諡号にくらべるとやや軽い感じで、手抜き感がある。

一方の諡号は時代によって漢風諡号と和風諡号が併用された。
天智天皇を例にとると、漢風諡号が「天智天皇」、和風諡号が「天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)」。天命を受けて別の王朝、または国を開いた尊という意味だろうか。
意味深な和風諡号を持つ天皇は多く、日本史の真実を読み解くには、和風諡号を解析するのが手っ取り早いかもしれない。
現在は歴代天皇のすべてを漢風諡号または追号で味気なく「〇〇天皇」と呼んでいる。

さて、聖徳太子の「聖徳」という二文字が太子の業績や徳行を称えて贈られたものだとすれば、太子以降に「徳」の字を献上された天皇は、やはり何らかの業績や徳行があった人物とみるのが自然だろう。
ところが、史実に照らすとちょっと違うようなのだ。

「〇徳天皇」たちの絶望、暴走、悲運、怨恨その他もろもろな人生模様

9人の「〇徳」メンバーのうち、筆者は4代懿徳(いとく)は実在性が疑わしく、16代仁徳は先代の応神と同一人物とみているので、今回は除外させていただく。だいいち、この二人については詳細が不明なので考察のしようがない。

残る7人は36代孝徳、48代称徳、55代文徳(もんとく)、75代崇徳(すとく)、81代安徳、82代顕徳(のちの後鳥羽)、84代順徳。

まず孝徳からみていくと、この人ほど屈辱的な思いを味わった天皇もめずらしい。 乙巳の変(大化の改新)後に即位して都を難波宮に移したが、皇后、皇族、臣下が中大兄皇子(甥。のちの天智天皇)につき従って元の都に戻ってしまい、絶望のなかでさびしく死んだ。

称徳女帝といえば宇佐八幡宮神託事件の張本人。庶民が皇位に王手をかけた、皇統断絶の危機だった。天武系最後の天皇であり、愛人の怪僧・道鏡の専横を許したあげく、皇位につけようと企むも失敗。病死と伝わるが、医療行為や祈祷が行われた記録がないことから、見殺しにされた可能性が高い。藤原百川による斬殺説もある。
ただ、この人の場合は生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊称が贈られていることから、これに準じた「徳」だったとも考えられる。

文徳は病弱で、会議や節会に参加することが少なく、実権は皇后の父・藤原良房に一貫して握られた。天皇位にあるにもかかわらず、良房の圧力に屈して内裏正殿に居住することもなかった。突然発病して急死するが、これも良房による暗殺説あり。

崇徳は日本三大怨霊

真打ちの崇徳は日本三大怨霊の一人。父の鳥羽上皇におとしめられ、弟の後白河に保元の乱で敗れ、天皇・上皇としては400年ぶりの流罪となった。流刑地の讃岐では、乱の犠牲者の供養のために写経に打ちこみ、写本を京の寺におさめてほしいと朝廷に願いでた。ところが、呪詛がこめられているとして拒絶され、写本は送り返される。
崇徳は舌を噛み切り、「我、日本国の大魔縁となり、皇を民とし、民を皇となさん」と天皇家を呪う。以後は髪や爪を伸ばし続けて夜叉のようになり、生きながら天狗になったという。京からの刺客に暗殺されたとの説も根強く、崇徳の棺からは、蓋を閉めているにもかかわらず血があふれだしたと伝えられる。
明治天皇は即位の礼に際し、皇が再び上に立つことの許しを請い、崇徳が二度と帰ることがなかった京都に御霊を移した。崩御800年にあたる1964年には、昭和天皇も式年祭を執り行っている。

安徳は都落ちした平氏に同行。壇ノ浦の戦いで二位尼(平時子)に抱き抱えられ、三種の神器とともに海中に没した。満6歳と4か月だった。未婚のまま崩御した男性天皇は以降は例をみない。
ちなみに、崩御の2年前に後鳥羽天皇が即位しているため、この時期は二人の天皇がいたことになる。

安徳と在位期間が重なる後鳥羽に最初に贈られたのが「顕徳」で、第3皇子が順徳。顕徳には神器なき即位・治世というコンプレックスがついてまわった。親子は承久の乱で鎌倉幕府に敗れ、配流される。日本史上、初めて武家政権に武力で敗北し、武家政権によって流刑に処されたのが彼らだった。順徳は、京に帰る望みがないうえは存命は意味なしとして断食し、頭に焼石を乗せて絶命する。
父の顕徳が「後鳥羽」に改められたのは、天変地異などの異変が相つぎ、それらが顕徳の怨霊のしわざとみられたためだ。

怨霊とみなされた天皇の鎮魂法が「徳」の献上だったとすれば、この時点で「徳」の効力は消滅したと判断されたのかもしれない。顕徳以降、「〇徳天皇」は一人も登場していない。
とりわけ崇徳、安徳、顕徳、順徳の四人は、追号が主流だった時代にもかかわらす特例的に諡号が奉られている。

やはり元祖は聖徳太子か

こうしてみると、天皇の「徳」の字は生前の栄誉を称えるものではなく、不幸な境遇や無念の死に対する鎮魂の意味合いを持つものだったと考えられる。事実、功績があったとされる天皇に「徳」の字はみられない。

では聖徳太子はどちらの意味の「徳」だったのかが気になるが、鎮魂慰霊としての「徳」の追贈第一号は、やはりこの人だったように思えてならない。太子の死因については不明な部分が多く、自殺説や暗殺説がある。正史によると、皇子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を筆頭とする一族も蘇我入鹿によって集団自決に追いこまれている。

歴代天皇と「徳」の諡号の関係については、とかく怨霊封じというオカルティックな一面に注目してしまいがちだ。
けれど昔は現代より名誉が重んじられていて、生前の醜聞やみじめな死にざまが伝わることは恥とみなされた。また死後の世界が信じられていたため、それらは成仏の妨げになるとも考えられた。
彼らに美称や美談を贈り、死を汚さずに美しく演出することは、日本人の感性にそった弔い方だったのではないだろうか。


柊です。世界の未解決事件やシリアルキラー、歴史のミステリーを追いかけています。
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