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秀吉の弟「豊臣秀長」、惜しまれる早死

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子供の頃から歴史が好きだったのですが、最近またネット検索で色々調べてはまっています。
昔はそうでもなかったのに、最近になって再評価されたりして名前しか知らなかった武将についても詳しく知ることができるように。
そのなかで秀吉を陰から支えていた有能な弟をご紹介しますね。

いつの時代にも、あの人がもうちょっと長生きしていれば歴史が変わっただろう・・・という人はいますよね。
武田信玄、上杉謙信、それに織田信長なんかはその典型だと思いますが、大物すぎるかもしれません。

もう少し格下の小物っぽい人では、豊臣秀吉の3歳ほど年下の弟の「秀長」という人がいます。
秀吉の異父弟、いや父も同じという諸説ありますが、秀吉が出世して家来が持てるようになった頃に家族を呼び寄せ、秀長も秀吉に仕える侍になったというのは確かです。

この人はずっと秀吉の陰に隠れて補佐的な役割を果たしていましたが、秀吉に従って戦った合戦もそつなくこなし、あの本能寺の変後の「中国大返し」と山崎合戦にも参加したなど、かなり有能で人望もあったのです。
なにがすごいかというと、大和の国の統治を任されたのですが、あそこは昔からの大きな社寺がうるさくて、平安時代からの貴族の荘園とかもあって、無理難題を言ってくるややこしい土地柄です。
秀吉が天下統一した頃にそんな昔の権利を持ち出されて主張されても武士たちは困ったと思います。

ですが秀長はこれらをお金で買収したり、自分の人徳で丸め込んだりして治めちゃったのです。
また兄の秀吉、けっこう怒りっぽくて、武将たちともめごとになったりすることもあったのですが、秀長が秀吉を上手にいさめたりと配下の武将たちに頼りにされていたのです。
秀吉はひとりの手柄で運任せに上り詰めたように見えますが、あの軍師黒田官兵衛孝高と弟秀長の補佐があってこそ、天下をとれたという人もいるくらいです。

しかし秀長は、天正19年(1591年)、兄秀吉に先だって大和郡山城で52歳で病死。
居城の大和郡山城にはなんと金子56000余枚、2間四方の部屋にいっぱいの銀子という、あふれんばかりの財宝を残したという蓄財の才もあったのですね。

そして秀長の死後、秀吉は歯止めが利かなくなったのでした。
翌年には朝鮮半島へ出兵し、無謀な明への進撃を試みたり、思いがけず淀殿に秀頼が生まれた後は、いったんは跡取りとした甥の秀次を自害に追い込み、秀次の正室や側室、幼い子供たちまで皆殺しにしちゃうんですよね。
晩年の秀吉(61歳で死去)が、若い頃に織田信長が見込んだあの機転の効く木下藤吉郎、出世頭となった羽柴秀吉の面影もない、耄碌した老害になり果て晩節を汚したのは、ひとえに弟秀長が早死しちゃったから。

もし、秀長が兄の秀吉よりも長生きしていれば、甥の秀次が殺されることもなかっただろうし、その後の関ヶ原合戦も起こらず、3歳年下の徳川家康ににらみを利かせられる存在として、大坂の陣も起こらずに秀頼が滅ぼされることもなかったかもしれないとさえ言われています。
兄や弟とかきょうだいがものすごい出世をすると、無能なのに取り立てられて七光りとかコネでおいしい思いしてるのね・・・という人も多いけれど、目立たないようにしっかり兄の大出世をささえた弟秀長のような存在、けっこう珍しいと思いますね。

※画像はイメージです。

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