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豊臣秀吉の朝鮮出兵はなぜ行われたのか?

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あまり人気がないし詳しく取り上げられない朝鮮出兵ですが、意外な事実をご紹介しますね。

目次

豊臣秀吉の朝鮮出兵は人気が無い?

昔、日本史の講座で先生が、「秀吉の朝鮮出兵の史料は山ほどあるんだけど、人気がなくてあまり取り上げられない」。そして日本の武将たちが朝鮮で戦って、首を挙げて持って帰るのが重たいからと鼻をそいだ話をねちねちとされていました。
討ち取られた人を気の毒に思ったけれど、そんな話ばかりではそりゃ人気ないわなあと思ったものです。

しかし最近検索して知ったのですが、ヨーロッパの修道会とかバチカンローマ法王庁へ、日本に布教に来ていた宣教師たちが送った報告書などの史料が研究されるようになり、新事実が明らかになったというのです。

そういうわけで、日本の戦国時代を世界史視点で見ると明らかに変わって見えるというか、驚愕の事実になってまいりました。

豊臣秀吉の朝鮮出兵に新事実?

朝鮮出兵は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が晩節を汚した出来事のひとつとして、耄碌したとさえ言われているのですが、動機や理由ははっきりとはわかっていません。
しかし最新の説によれば、南米から太平洋を越えてフィリピンを植民地にしていたスペインが、明の侵略を考えていたということで、秀吉はその情報を察知して、スペインに占領される前に明に進出しようと朝鮮に先導役を頼んだが、断られたので朝鮮と戦争を始めたというのです。
他にも、宣教師たちは日本の軍事力を利用し、スペインに代わって明を侵略させようとしたという話もあります。

ところで、秀吉の朝鮮出兵文禄の役は1592年の春に開始しましたが、組織的な抵抗がほとんどなかったということで、戦国時代で戦争慣れした日本の武将たちの軍団は連戦連勝で、援軍の明軍も撃破しました。しかし、日本軍は外国での戦争に離れておらず、兵站がうまくないのですね。

おまけに戦闘担当の武闘派加藤清正らは、勝ちにまかせてずんずん北進していき、兵站の石田三成が勘弁してくれと、清正らを放って帰ろうとした話すらあります。なので戦死者より、凍死や餓死者の方が多く、悲惨な話ばかりで負け続けたような印象が強いのです。

また、一旦休戦して、小西行長らの欺瞞外交が発覚して再戦となった慶長の役でも日本は勝ち続けましたが、このときの蔚山城の戦いで清正ら武断派と三成の文治派の対立が深刻化してしまいましたしね。
そして秀吉の死で撤兵、朝鮮出兵は終了となりました。

朝鮮出兵による効果

朝鮮半島を荒らし「明」も疲弊させ滅亡に追いやった迷惑千万でいみふ、秀吉のエゴとされているのですが、世界史視点で見ると、この朝鮮出兵のおかげで日本はスペインやポルトガルの植民地化を逃れたと言われています。
なんと圧倒的な日本の軍事力を見せつけられたため、フィリピンまで植民地化して虎視眈々と日本を狙っていたのに、怖くて手が出せない、すっかり恐れをなしてしまったということなんです。

日本はキリシタン禁止としたため、キリスト教布教と結びついて世界征服をもくろむスペイン、ポルトガルの入る隙をなくし、鎖国して世界史上まれにみる平和な時代を200年も続けることが出来たともいうのです。

失敗に終わった朝鮮出兵のおかげで、スペインは日本に対して南米のインカ帝国滅亡みたいなことが出来なかったなんて、現代から見ると呆然とするようなことですが、歴史ファンは歓喜じゃないかなと思いましたです。

※画像はイメージです。

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