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東久邇宮稔彦王の虚実

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歴史ファンに人気なのは、やっぱりロマンあふれる古代史とか勇ましい戦国時代、それに新しい時代を作ろうとする情熱に満ち溢れた明治維新でしょう。
かくいう私も、侍こそ日本人の原点とばかりに、長いこと明治以後の日本史には興味を持てなかったくらいです。

しかしインターネット検索という武器を与えられた歴史ファンは、もう難しい本を読まなくてもググレば一発で疑問が解決する世の中になったんです。
というわけで明治以後の歴史の壁を突破し、ついには苦手中の苦手だった昭和史まで調べることが出来ました。

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東久邇宮稔彦王

そこで出てきたのが東久邇宮稔彦王、終戦後に50日ほど首相を務めことで知られています。
この人は明治維新の時に暗躍した中川宮の末息子で、昭和天皇の香淳皇后の叔父、そして昭和天皇の長女の婿の父でもあるんです。

ウィキを見るとなんと陸軍軍人となり、明治天皇の娘と結婚して、パリへ留学し自由主義思想を身につけただけでなくクレマンソー元首相らとも交流し、画家としてモネやルノワールと交流したとあります。当時の開明的な考えを持つ皇族みたいに書いてあるんですよ。
しかし図書館で分厚い「最も期待された皇族東久邇宮 虚像と実像」という本を読むと、この稔彦王が留学したときすでにルノワールは死んでいたしモネは80代で目が不自由だったとか、それに2.3年のはずの留学が愛人が出来たために帰国を渋っていたというんです。

大山巌の息子とか偉い人が説得に来ても、関東大震災で自分の次男や親せきの皇族が亡くなっても帰らず、結局は7年も居座って大正天皇が亡くなったのでやっと渋々帰国。
それにこの留学費用は国から毎年当時のお金で20万円、現在の価値では1億円以上×7年分もらっていたけれど、莫大な余りの金額を返さずに着服しちゃったというのには呆然としました。

戦後の首相就任も、GHQの無血占領を滞りなく行うために皇族で陸軍軍人だから祭り上げられたお飾りで、実務は吉田茂らがやっていたそうです。

ネット情報の相違

そういうわけで、このウィキは稔彦王が晩年に書いた回想録だけをもとに書かれたようで、「最も期待された~」によると稔彦王はなんでも自分に都合よく解釈して虚実取り混ぜたことを書いているため、ひとつひとつ検証するとボロボロなんだとか。
そんなだからストレスなく102歳まで長生き出来たんだというすごいオチになってました。

この東久邇宮稔彦王は脚光を浴びたがり屋だったのに、なぜかマスコミ受けも良くて昭和天皇の側近として期待されていたというのですが、この程度で期待されるなら他の皇族も、というのには笑えました。
とにかく旧皇族の復権とか言われますが、大丈夫なのかと思うような人がいたこと、ウィキを全面的に信用して良いものなのか?という二つのことを学びましたです。

featured image:National Diet Library, Public domain, via Wikimedia Commons

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