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戦慄と哀哭の食人事件・・・ひかりごけ事件

人間が人間の肉を食べる。
大多数の人間がこれをタブー視していることは言うまでもない。
しかし、それは平時の世の中で話である。
命の危険を感じる空腹の中で、もしも目の前に人肉しかなく、今後もその人肉しか得られる見込みがないのだとしたら。
私達はその肉に手を出さないと誓えるだろうか。

目次

奇跡の英雄の帰還

太平洋戦争下の1944年(昭和19年)2月3日、日没の迫る午後4時頃、知床岬から約16km離れた羅臼(らうす)村字ルシャ(現・羅臼町岬町)で漁業を営んでいた老夫婦の家を男が訪れた。
男は自分を日本陸軍徴用船の船長だと名乗ると、知床岬で船が座礁し、ここまでなんとか歩いてきたと話し始める。

にわかには信じ難い話に驚いた老夫婦は男に詳しく話を聞いた。
男は徴用船修理のため、根室港から小樽市へ向かう途中の1943年12月3日、知床岬沖合で猛吹雪に遭遇し船が座礁。
奇跡的に知床岬のペキンノ鼻に上陸できた船長は、偶然発見した番屋で約2ヵ月に渡り、1人過ごしていたと話し始める。
共に船に乗っていた他の船員6人は上陸時にはぐれ、行方知れずになったこと、番屋に蓄えられていた味噌や海藻、流れ着いたアザラシの肉を食べて今日まで生き延びてきたことなど、老夫婦は次々に驚くべき話を聞くことになった。

番屋とは現地の漁師が漁をする際、寝泊りに使用する質素な建物だ。
加えてこの地域の漁は夏の3ヵ月程しか行われておらず、大した蓄えが残っていたとも考えにくい。
極寒の知床で遭難した上、粗末な番屋で生を繋ぎ、自力で助けを求めにくるなど到底考えられないが、事実、その想像を絶する経験をした男が目の前に座っている。

老夫婦はすぐに集落の会長に「船長奇跡の生還」を伝え、翌4日には老夫婦宅から約16km離れた羅臼村の標津(しべつ)警察署羅臼派出所の巡査部長にもこの話が伝えられる。
同時に奇跡的に生き残った船長の話は村中に広まり、彼は「不死身の神兵」と呼ばれ一躍、村の英雄と崇められながら自らの故郷へと帰って行った。

不死身の神兵から悪魔の軍属への転落

2月18日、船長が上陸したというペキンノ鼻の南側にいくつかの人影があった。
現場検証を行う警察の姿だった。
村が不死身の神兵の奇跡に沸き立つ一方、極寒の知床で1ヵ月以上生き延びたという話に不信感を覚える者もおり、地元警察が独自の捜査に乗り出したのだ。

この調査により警察はペキンノ鼻の北側で凍死体を発見する。
それはあの船長が乗っていた徴用船の乗組員の遺体であった。
さらに調査を進めれば、他の船員の発見や船長がなぜ氷雪に閉ざされたこの地で1ヵ月も生き抜くことができたのか、その謎が解明するかもしれない。

そう思われた最中、警察署長からはこの件に関するあらゆる調査の中止命令、また、陸軍上層部からも箝口令が出され、捜査は中止を余儀なくされる。
捜査が中止に追い込まれたはっきりとした理由はわかっていないが、時は戦時下、加えて日本劣勢の戦況だった。
船長は正確には軍人ではなく軍属の民間人であったわけだが、軍部にとっては軍の汚名となりかねない情報が出てくるのは避けたいという思いがあったのかもしれない。

だが例え箝口令を出し人々の口を塞ごうとも、起こった事実の全てを覆い隠すことはできなかった。
知床の地にも春の足音が聞こえ始める5月、船長が1ヵ月を過ごした番屋の所有者が夏の漁に向けて番屋を訪れた。
その際、番屋近くにロープで縛られたリンゴの木箱を発見する。
中を確認すると、元は人のものだったと思われる骨や表皮がぎっしりと詰まっていたのだ。
そして箱に詰まった骨は皮の様子は非常に奇妙なものだった。
頭蓋骨は割られ中身はきれいになくなっており、元々は骨についていたと思われる肉を焼いて食べた形跡も残されていた。
獣の類の仕業でないことは明らかであった。
そしてそれが船長が厳冬期を過ごした番屋のそばで見つかったとなれば、彼の関与を疑わないわけにはいかない。

後日、警察が故郷に戻っていた船長を尋ねたところ、彼は抵抗や不審な挙動もなく事情聴取に応じたという。
しかし、その落ち着いた様子の男の口から語られたのは、彼の様子からは想像もできない言葉だった。
「共にいた船員を食べた」。
6月、船長は逮捕される。
容疑は殺人、死体遺棄および死体損壊だった。
不死身の神兵は一転、悪魔の軍属と呼ばれ犯罪者として裁かれる事態となってしまった。

惨憺(さんたん)たる状況下での2人の遭難生活

船長は座礁した船から上陸した後、偶然にも1軒の番屋に辿り着くことができた。
しばらくすると、同徴用船の船員であった18歳の青年が同じ番屋に辿り着く。
吹雪の吹き荒れる孤独な地で自分以外の者と出会えた時、互いにどんなにうれしかったであろうか。
2人は折を見て近場にあった別の番屋に移動。
その番屋で互いに励ましあいながら、浜に出てワカメなどを拾い食べながら1ヵ月以上を過ごしたそうだ。

しかし、海藻で満たせる腹には限度があり、まして人が立ち寄らない冬の番屋に2人の男を満足させる量の食料があるはずもない。
寒さと空腹は2人から徐々に気力と体力を奪っていった。
そして遭難から1ヵ月以上が経過した1月中旬頃、ついに18歳の船員が栄養失調で亡くなってしまった。

食人に至る顛末

逝ってしまった仲間を前に、その死を悼む気持ちや1人取り残されてしまった孤独感が船長を襲った。
それと同時に、横たわる死体を前に抗いがたい気持ちが胸に去来する。
「こいつの肉を食べたい」。
18歳船員の死から2、3日後、船長はついに亡き同胞の肉を削ぎ、食べ始めた。
人肉を食べた時の事を、船長は後にこう語ったという。

「(食べた人の肉は)いまだ経験したことがないほどおいしかった。脳みそを食べた時がもっとも精力がついた気がした」。
それは飢餓が見せた幻故の味だったのか、それとも彼が本来持っていた味覚が目覚めたが故の味だったのか、恐らく船長本人にもわからない、
この食人行為は約10日間に渡って続き、船長は失いかけていた気力と体力を少しづつ回復させていく。
そして天もまた彼に味方する。
1月31日頃から番屋周辺の天候がよくなり始めたのだ。
この隙を狙って船長は番屋を出発し、ついに2月3日、先の老夫婦宅に助けを求める事に成功。
無事、生還を果たすこととなった。

食人裁判

逮捕された船長は取り調べにも素直に応じ、人肉を食べたことについては認めた。
しかし、18歳船員を食べるために殺害した事については頑なに否定した。
船長が殺人を犯した証拠はなく、生き残りが船長ただ1人であったため目撃証言もそして自白も得られなかった。
また、過去も現在も“食人”という行為を咎める事に特化した法はない。
そのため、検察は供述のみを元に船長を死体損壊の罪で起訴した。

検察は「寒さと飢餓による窮地の状況であっても、人肉を食してまで死を回避しようとしたことは人道上、社会的見地から到底認められることではない」とし、死体損壊罪で2年を求刑した。
一方、弁護側は「飢餓により命の危機に瀕した状況下での食人行為は“緊急避難”にあたり、自身の生命を守るためやむを得ない行為であり、無罪であると主張した。
(緊急避難…刑法37条、自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。)

検察と弁護側が真っ向から対立したこの裁判で、裁判所は船長が事件当時、心神耗弱であった事は認定する。
一方で弁護側の緊急避難の主張については「避難行為によって生じた害が,避けようとした害を超えている―つまり死に直面した状況ではあったものの、人肉を食べなければならないほど緊迫した状況ではなかった―」として、その一部訴えを退ける。
結果、裁判所は「極寒の地で飢餓に見まわれ命の危機に瀕し犯行に至ったのは明らかであり、犯行時、船長は心神耗弱の状態であった一方で、船長の飢餓状態が死体を食べるに至る程逼迫した状況であるとは認められない」とし、懲役1年の実刑判決を下した。

判決への疑問

戦中の裁判だったためか、故意にかはわからないが裁判に関する正式な書類は残されていない。
また「内容が内容なだけに」ということなのか、裁判は非公開で行われたようである。
半ば密室で下された判決に対しては疑問が残る。
今回は2つの疑問点について考えていきたい。

1 なぜ心神喪失ではなく心神耗弱だったのか

心神耗弱とは、精神障害(統合失調症をはじめとする精神病、麻薬中毒や認知症、アルコールによる酩酊状態等)のせいで善悪の判断を行う能力や判断どおりに行動する力が著しく低い状態のことを指す。
一方、心神喪失とは、精神障害のせいで善悪を全く判断できない、または判断のとおりに行動することが全くできない状態のことを指す。
刑法第39条において、1.心神喪失者の行為は、罰しない、2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する、と定められている。

人が人の肉を食べるということに対して多くの人が嫌悪感や罪悪感を抱き、もしも人肉を食した人間がいるとわかれば、その人間の精神を疑う人がほとんどであろう。

実際に裁判内では、事件当時の船長の精神状態について、心神耗弱状態だったと認めている。ただしこの認定については精神鑑定が行われた形跡がなく、裁判官側の独断によるものと思われる。
寒さと飢え、そして助けが来る見込みが一切ない希望を断たれた環境下で目撃した仲間の餓死。目の前の死体を見るたびに「いずれ自分もこうなる」という現実を突きつけられたことだろう。
死を意識する程の極度の飢餓状態に置かれた状況で、人は果たして正常な精神を保てるのだろうか。

2 なぜ食人行為は緊急避難を全面的に認められなかったのか

①でも触れた通り、船長が置かれたのは寒さと飢え、そして助けが来る見込みが一切ない希望を断たれた中で栄養失調の仲間の死を看取り、この仲間の屍こそが明日の我が身という状況だった。
これは刑法第37条にある、「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難」という状況に他ならないと思われる。
なぜ、判決では全面的に緊急避難は認められなかったのか。

判決への考察

2つの疑問点への回答として1つの仮説が考えられる。
それは太平洋戦争戦時下という事件当時の社会情勢から考えられる仮説だ。

1944年、太平洋戦争の戦況は悪化の一途を辿るばかりであった。
7月にはサイパン島の守備隊が全滅し陥落。
これにより、サイパン島を拠点とし、アメリカ軍B29による日本本土への空襲が可能になった。
実際に11月には本土空襲が始まり、前線にいる兵士のみならず国内に残る一般市民にも戦火が及ぶ可能性が徐々に迫っていた頃だった。
また日本国内の食糧事情も厳しくなっており、一部品目の配給停止、学徒を動員しての食糧増産計画なども練られている。
戦地においても同様で、食料補給が途絶え、自ら食料を調達せざるを得なくなったなった。兵士の中には飢餓に耐えられず、人間を口にする者が多数出た。
軍も事実上その行為を敵兵に限ったものではあるが認めざるを得ない状況だった。

日本全土が戦場と化し、国民総玉砕の覚悟で戦う日が来てしまったら、外地での状況と同様に食料補給はままならなくなる。
耐え難い飢餓の中で食人行為が横行する可能性は極めて高いのでないだろうか。
敵兵を殺してその死体を食べているうちはまだ構わない。
抗いがたい空腹を満たすために、同胞を殺して食べるようになってしまったら。
今日の友は明日の敵、それではもはや戦争どころではなり、日本社会が内部から崩壊してしまう危険を孕んでいる。

もしもこの食人裁判について、心神喪失や緊急避難を理由として無罪判決を下した際、それは「飢餓によって命の危機に瀕した際には人肉であろうとも食べていい」という免罪符にはならないだろうか。

もちろん、これは歴史を遡っていき考えた仮説である。
当時の人々がどこまで今起こる戦争に対し危機感を募らせていたかはわからない。
また、非公開で行われた事件の裁判の判決を、一体どれほどの人間が知っていたかはわからない。
しかし、戦時であることが全てにおいて優先された時代である。
戦争に影響の出る事案はことごとく、都合のいい方へ塗り替えられてしまったのではないかという考えはあながち的外れではない気がする。

小説ひかりごけと犯人のその後

裁判により刑が確定した後、船長は網走刑務所に服役した。
刑務所内では模範囚として過ごし、出所予定日を前倒して1945年6月に仮出所したそうだ。
船長は問われた罪に対し、法で定められた罰を負い世間に出てきたのだ。
しかし、船長は世間の目という終わることのない罰を受けることとなる。

当時、この食人事件は裁判が非公開で行われた事、事件の発生が日本北端の過疎地で起きた事などの理由により、広範囲に正確な情報が伝わる事はなかった。
この事件が多くの人の目に触れることになり、「ひかりごけ事件」という名まで冠するきっかけとなったのは、武田泰淳氏が1954年に短編小説“ひかりごけ”を発表したためである。

小説ひかりごけは、武田氏が羅臼郷土史に残された食人事件の記録(こちらも当時の人々の口伝を元に編纂されたもので記された事件に関する内容がすべて事実かは疑わしい)や現地で聞いた話をモデルとし、人を食うという原罪を問うた作品だ。
同小説内の船長(事件の船長をモデルにしていることは明らかである)は、船の遭難により、同じく船に乗っていた3人の船員と共に洞窟へ避難する。
その後、餓死した1人の肉を食べたことをきっかけに、次の餓死者も食べた挙句、残る1人についてはわざわざ殺害して食したというのが、小説内で語られた事件の概要である。

1つの物語としては大変すばらしい作品だが、実際に起きた食人事件にさらに脚色を加えた内容となっている。
しかし、世間にはこの小説の内容こそが実際に起きた事件であると受け取られ、実在する船長が船員を次々と食し、人を食するために殺人まで起こしたという誤った風評が流れることになってしまったのだ。

事件から50年を経て、ノンフィクション作家の合田一道氏が1994年に“裂けた岬―「ひかりごけ」事件の真相”というノンフィクションを発表する。
合田氏は船長が亡くなるまで15年に渡って本人に取材を重ね、その取材を元に記された作品である。

それによれば、自身に死が迫る中で身体的にも精神的も追い詰められて同胞の肉を食べてしまったが、なぜそのような行為に至ってしまったのか、船長自身も当時の心境を明らかにはできなかったという。
一方で自身が人肉を食べた事ははっきりと覚えており、「人を食べるなどということをしている私が懲役1年という軽い罪で済まされるはずがない」、「自分は死刑でも足りないのだ」と、出所後、亡くなるまでの数十年に渡り重い罪の意識に苛まれ続けたそうだ。
小説ひかりごけの影響もあり周囲からは「人食い」と呼ばれ、「殺して食べた」等という誤った罵倒を受けても、船長はそれを黙って受け入れてきた。
それは諦観であると同時に、彼にとっての贖罪だったのかもしれしない。

船長は死の間際、事件の現場である知床・ペキンノ鼻を訪れたいと望んでいたそうだ。
しかし、その望みは叶うことなく船長は亡くなったという。

最後に

知床の名は一説にアイヌ語の「シリエトク」(地の果て)が語源と言われている。
太古の時代から変わらない大自然の壮大さは私達に感動を呼び起こす一方で、時に非常な一面を突きつけてくる。
地の果てにおいて抗いがたい寒さと飢え、そして孤独の中で死が目前まで迫っていた船長。

そんな彼が「生きたい」と思うことは、人間のみならず、ありとあらゆる自然界の生物の本能だ。
生き物として本能を果たして私達は真に裁くことができるのであろうか。

もしも今、極寒の地で連絡手段も助けが来る見込みもない中で飢餓に苦しみ、目の前に新鮮な死体が転がっている状況に陥ったら。
貴方はどのような決断を下しますか。

※画像はイメージです。

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コメント一覧 (2件)

  • 才筆を拝読し、小説「ひかりごけ」を読んでみたくなりました。自分もこのような極限状態に陥ったときに果たしてどうなってしまうか・・・怖くなりました。

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