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世界遺産国宝 姫路城を語りたい

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兵庫県姫路市にある国宝姫路城、どの角度から見ても美しく、誰が写真を撮ってもきれいに写ります。
しかしなんでこんな田舎にこんな大きな城があるのか、行く価値あるのかと言う疑問にお答えしますね。

目次

姫路城の歴史

数年前に改装されて白すぎると言われた天守閣が目印の美しいお城で、昔は播磨の国と言った兵庫県姫路市にあります。
ここは軍師黒田官兵衛が生まれた城で、当時は近隣の御着城が本拠の小寺氏が治めていて黒田氏はその家臣だったのですが、中国地方でブイブイ言わせていた毛利氏ではなくて、尾張の新興勢力の織田信長に着いた方がいいという勘兵衛の判断で小寺氏ともども黒田氏は信長に着いたんです。

そしてそのときに中国地方担当となった信長の武将の羽柴秀吉後の豊臣秀吉に、良かったら使ってねと譲ったところ、秀吉が居城として城下町を整備して、天守閣も作ったのが、今の姫路城と城下町が出来たもとなんですね。

秀吉は本能寺の変のときは、備中高松城(現岡山県岡山市)の水攻めの最中でしたが、すぐに講和して姫路城まで取って返したのを「中国大返し」といい、姫路城でひと休みした後に明智光秀との山崎合戦で勝利し、天下人への道を駆け上ったのでした。
そういうわけで、姫路城は秀吉の出世に貢献した縁起のいい城と言われるように。

関ヶ原合戦で

その後、関ヶ原合戦で功績のあった池田輝政が、家康の娘婿ということと弟などの分も合わせると播磨の国100万石をもらっちゃったので、それにふさわしい城を築くことになり、今の大きな城が出来ました。

次に本多忠勝の息子忠政が入って、息子の忠刻が家康の孫の千姫と結婚、千姫が10万石の化粧料を持ってきたために西ノ丸が出来たんです。
本多忠刻は30歳で早死にしたんですが、当時イケメンで有名で宮本武蔵の養子の弟子でもあった人です。

実は忠刻の母は家康の長男信康の娘なので、忠刻は織田信長と家康の曽孫というサラブレッドで、千姫は母の従妹(千姫はお市の方の孫でもある)とか血縁関係もあり、似合いの美男美女のご夫婦だったそう。

江戸時代

さて、家康は江戸幕府を作りましたが、薩摩の島津家か長州の毛利家が江戸幕府を倒す仮想敵国と思っていたので、それに備えた布陣を作ったんです。
ということで、岡山城、姫路城、大坂城に名古屋城がその防御として大きく作られたんですわ。
その後、もし江戸城を退去することになれば甲州街道を日光へ落ちて東照宮で立て籠もる公算もあったそうです。
なので、姫路城は江戸城に似せた作りでもあり、参勤交代の時に威嚇する目的もあったとか、それくらい姫路城は重要な位置だったのです。

城主が代替わりして幼いとか不祥事起こした奴には任せられないと転封されがちで、けっこうころころと藩主が変わっており、江戸時代はだいたいが譜代大名の15万石でした。
幕末は老中の酒井家が藩主だったので、岡山藩から砲撃を受けたようですがほとんど被害なし。
そして明治後は陸軍の管轄になり兵舎が置かれた関係で軍が大好きな桜の木がたくさん植えられ、今ではお城の白さとピンクの桜のベストマッチになりました。

太平洋戦争

その後、太平洋戦争の空襲で姫路市街は焼け野原となったが、姫路城天守閣に落とされた焼夷弾は不思議なことに数発とも不発弾で火災を免れたんですね。
姫路城は合戦に巻き込まれたこともないかわりに、これといった歴史の大事件にも遭遇しない、歴史家を呼んで講演してもらっても話題がないと言われたものですが、最近では戦火を免れたことなどで、「パワースポット」とご利益を期待する場所にもなっているんです。
千姫が祈っていた西ノ丸の化粧櫓の窓からの千姫天満宮を待ち受けにすると恋が叶うというパワースポットも人気だということで、21世紀は外国人観光客も多い国際的な言語が飛び交う観光名所になっているんですよ。

※画像はイメージです。

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