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平賀源内を考察する

平賀源内は江戸時代中期に多才奇才と言われ、本草学者、地質学者、蘭学者、事業家、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家などと極めて多くの顔をもち、天才であるとともに山師的な感じも受ける人物です。
僭越ながら、本当はどのような人物であったのかを考察してみることにしました。

目次

平賀源内とは

平賀源内、元々は信濃源氏大井氏流平賀氏の血筋であり、京保13年に高松藩志度浦に生まれた。
高松藩において藩政に尽力していた松平頼恭(まつだいらよりたか)に本草方として仕え、宝暦2年に長崎に遊学してオランダ学芸を修めた。
宝暦4年に退役して江戸に移り、本草学者、医者、戯作者として活躍し、蘭学の開拓者でもあった。さらに、長崎で入手したエレキテル(摩擦による静電気発生機)を修理して復元したりもした。

概して、平賀源内は自身の能力を誇ったり、得た秘技を自分だけのものにして栄誉を得たり、自身に利益を集めるために企業のようなものを考えたりというような活動を行うのではなく、西洋に遅れを取っている部分に関する知識を日本国内に公開して人々に役立てようという強い意図が感じられる。士魂洋才であろうか。

この時代は人生50年と言ったが、安永8年52歳で死去した。計画書をめぐって大工とトラブルがあり酔っていたため大工を殺傷してしまったということで自首し、原因不明であるが獄中で死亡したということである。
蘭学医杉田玄白が友人として平賀源内の葬儀を執り行った。戒名は智見霊雄、墓所は浅草橋場に設けられ、大正13年に従五位を追贈された。

平賀源内と絵画

安永2年秋田藩に招かれて阿仁銅山の検分に赴いた際に、洋風画を習得していた平賀源内は、小田野直武に洋画の理論と実技を教えた。平賀源内は小田野直武の画才に驚いたという。司馬江感など、他の洋風画家にも大きな影響を与えた。

平賀源内が長崎滞在中に描いたと思われる油彩画「西洋婦人図」は、現存する唯一の平賀源内作の洋風画であるという。この画を観たとき僭越ながら、この方面での平賀源内の才能が並みのレベルではないことも感じた。

日本画とは違って線に頼らない洋画の表現法をしっかり取り入れて表現していると思える。
筆のタッチは軽く素早くためらいが少なく、全体の配置は背後の色を含めて非常にバランスが取れ、意図的なデフォルメが感じられ、画面に軽い躍動感を与えている。

平賀源内は山師なのか?

画才は持ち合わせた色々な方面の才能の中のほんの一つのあるとすれば、やはり、まれにみる能力を有した天才である。
平賀源内が、時には山師にみえたりしたのは有している才能が多すぎたため、それぞれの才能に割け得る時間が、あまりにも短かかったためであろう。

featured image:木村黙老 / Momuō Kimura, Public domain, via Wikimedia Commons

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