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大槍、蜻蛉切に隠された本多平八郎忠勝の強さの秘密。

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生涯無傷の花実兼備の勇士、徳川四天王に数えられる武辺者、天下一双の勇士。

本多平八郎忠勝は徳川家康の天下取りを支えた徳川四天王の一人(他に榊原康政、井伊直政、酒井忠次)。
幼いころより六つ年上の家康に仕え、13才で桶狭間の戦いの前哨戦の大高城兵糧入れで初陣、天下分け目の関ヶ原の戦いまで戦に参戦すること生涯で五十数度、常に先陣を切り勇猛果敢に戦いながら、一度たりともその身にかすり傷一つ負わなかったという稀有な戦国武将です。

忠勝という人物は単に猪武者だったわけではなく、戦略や戦術を練ることにも長け、例えば53才で臨んだ関ヶ原の戦いでは西軍の諸大名に書状を送り、東軍に寝返らせる工作も行っています。まさに忠勝こそは戦国時代を代表する知勇兼備の戦国武将の一人と言えます。それでいて忠勝は主君家康への忠義に厚い武将でもあり、常に家康の側近くに侍り、逆に年下の弟に接するようにどんなときも家康を励まし続けました。

例えば本能寺の変が起きたとき家康は忠勝ら少数の重臣だけを連れ堺見物中、「明智光秀謀叛」の報を受け我を忘れ取り乱した家康は「追っつけ日向守の手の者が襲って来よう。ここは近くの寺にでも籠って、皆で潔く腹を切ろう」と言い出す始末、これを押し止めたのは忠勝で自暴自棄になりかけた家康をどうにかなだめ、逃走ルートとして「伊賀越え」を進言。
家康の生涯最大と言われている危難をなんとか乗り切り、のちに家康は「あのとき命が助かったのは、ひとえに忠勝の働きである」と正直に吐露しています。

そんな忠勝は織田信長から「花も実もある勇士」「日本の張飛(三国志に登場する豪傑)」と称えられ、豊臣秀吉からも「日本第一、古今独歩の勇士」と持ち上げられるほど戦国三英傑からこれほど称賛された武将は忠勝くらいです。忠勝は味方だけでなく敵からも称賛させれています。

徳川軍と武田軍が戦った三方ヶ原の戦いのときには敗走する家康を無事浜松城へ逃すため殿で、鬼神もかくやと思われる働きを見せ武田信玄は忠勝に対し「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と忠勝を誉め、敵ながら惜しみなく賛辞を贈りました。ちなみに唐の頭とは中央亜細亜のヤク(ウシ科)の毛とされ、兜の飾りに用いられた非常に高価な兜のことです。このように戦において摩利支天の再来のような活躍を忠勝はしています。

忠勝を象徴する武器と言えば愛槍「蜻蛉切」が有名です。天下三名槍の一つで、戦場で抜き身で立てかけておいていたところにとんで来た蜻蛉が穂先に当たって真っ二つになったという伝説がある槍、この槍、切れ味もさることながら何と言ってもその柄の長大さです。通常の長槍は一丈半(約4.5m)であるのに対し二丈余(約6m)もあったそうです。

常人であればその長さの竹の棒ですら扱いに困るはずですが、長大な槍を戦場で軽々操る忠勝という武将の膂力がいかにすごいか、それを証明するのが騎馬で物見に出た忠勝は途中、仲間の武将が乗る馬が何かしらに驚き暴れだし武将を振り落として駆け出してしまった。忠勝は急ぎ、その暴れ馬を追いかけ並走、持っていた槍の柄を馬の手綱に絡ませ引き寄せて馬の動きを止めてしまったのです。

一部始終を見ていた仲間の武将たちは、忠勝の剛力ぶりに今更ながらおどろいたそうです。さらにこんな話しも、忠勝という人物は大坂の陣が始まる4年前、慶長15年(1610年)に没しますが最晩年に次男の忠朝と力比べ、親子で小舟に乗っていて葦原にさしかかり、楷を忠朝に手渡し「これであたりを薙いでみよ」と命じた。
これに怪訝に思った忠朝ですが、言われた通りに楷で葦群を渾身の力横に払うと目の前の半径2mほどの葦がバサバサと折れて倒れました。「まだまだじゃな」そう言って忠朝から忠勝は楷を受け取ると、素振り一つせずブーンと横ざまに一閃「あっ!」と瞠目した忠朝、なんと忠勝が薙ぎ払った葦群は利鎌にでも切られたように鮮やかな切り口をみせていたそうです。老いても衰えをみせない忠勝に忠朝は、ただ驚き呆れるばかりだったそうです。本多忠勝という戦国武将はまさに戦国無双、戦国随一の武将です。

※画像はイメージです。

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