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チェルシーホテル100号室~シド&ナンシーの破滅と死~

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ホテルの一室というのは人間の悲喜劇の掃き溜めだ。秘密の情事から別れ話、闇取引き、はては殺人事件まで、そこで繰り広げられる人間模様をどれほどのホテルがみてきたことか。

1978年10月12日、ニューヨークのチェルシーホテル100号室でナンシー・スパンゲンの刺殺体が発見された。
かたわらには茫然自失のシド・ヴィシャス。世界でもっとも有名なパンクロック・バンド、セックス・ピストルズの元ベーシストである。20歳と21歳の恋人たちは重度のヘロイン中毒者だった。
「案のごとく」「ついにこのときがきた」と人々は噂した。
「若い女性がひとり死んだ。わたしはどうでもいい。あなたもおそらくどうでもいい」と某音楽評論家は切って捨てた。
「あなたもおそらくどうでもいい」。いうまでもない。パンクロックはそれを求める者のためだけにある。

シド&ナンシー。ロンドンパンクのアイコンに祭り上げられた男と運命の女。
ロック界のロミオとジュリエット? いや、ちがう。ふたりが運命共同体だったことに変わりはないが、それはけっしてロマンティックな恋物語ではなかったからだ。
アウトサイダーの男女が出会い、時代の波に飲み込まれ、手をとりあってデッドエンドへ堕ちていく。その壮絶な生きざまは、薬物撲滅キャンペーンの広告よりもリアルな現実を突きつける。

あのころのパンクムーヴメントの片隅に、たしかに存在した19か月の物語。それは、エリザベス女王即位25周年の祝賀ムードに沸きかえるロンドンではじまった。

目次

ごみ溜めに咲く花

70年代後半のイギリスで、王室、政府、キリスト教、大手レーベル、ロックシーンなど全方位にケンカを売って、国家レベルの大騒動を巻き起こしたセックス・ピストルズ。
炎上商法が得意な敏腕マネージャーに仕組まれた部分はあるが、その存在が文句なしにパンクだったのは誰もが認めるところだろう。2年あまりの短い活動、オリジナルアルバムは『勝手にしやがれ!!』1枚のみ。以降のロックシーンだけでなく、カルチャーにも多大な影響を与えた35分間の金字塔である。

巨大ビジネスになり下がったロックをストリートレベルに引き戻したピストルズ。彼らはダムドやクラッシュとともにイギリスの1977年をつくった立役者だった。もしパンクロックを言葉で説明せよと言われたら、先祖返りの音楽と答えたい。頭でっかちな音楽理論はナンセンス、と付け加えたほうがいいかもしれない。世界で初めて両手に石をもち、それを打ちつけることで誰かを楽しませた人間の衝動を、いったい誰が言葉を尽くして説明できるだろう。

ロックンロールの初期衝動とでもいうべきシンプルなコード進行。権威にとことん反抗し、人を挑発する暴言の数々。生放送のテレビ番組では放送禁止用語を連発し、女王即位25周年の式典当日にはゲリラライヴを敢行して女王をディスる。とにかくピストルズは問題行動が多く、破壊活動分子として英国諜報機関の監視対象になっていたことが元MI5職員の証言で明らかになっている。
深刻な不況と退屈なロックにフラストレーションを抱えていたロンドンの若者たちは、この忌まわしい、最高に最低なパンクバンドに飛びついた。

シド・ヴィシャスは、ピストルズ以前の音楽活動を含めた2年半のあいだに無数の伝説を残した。本名をジョン・サイモン・リッチーという。
運命の転機は、ピストルズの2代目ベーシストに迎えられた1977年。初代ベーシストであり、音楽面での中心人物でもあったグレン・マトロックが「ビートルズのファンだから」という理由でクビになり、後釜に抜擢されたのがピストルズ信奉者のシドだった。ヴィジュアル重視の人選は、のちのパンクのパブリックイメージを決定づけることになる。パンクといえばシド、シドといえばパンク、と。
トレードマークはツンツンに逆立てた短髪、南京錠のチェーンネックレス、素肌にレザージャケット、破いたジーンズにエンジニアブーツ。ライヴでは観客を挑発し、殴り合いのケンカ。
後年、関係者は口をそろえて、本来はピュアで繊細な性格だったにもかかわらず、シドは「パンクロッカー」を演じていたと語った。憧れのピストルズが授けてくれた“VICIOUS”のステージネームに恥じぬよう、破天荒なキャラクターを演じ、それを楽しんでいたのだと。映画監督ドン・レッツは、ピストルズに加入して脚光を浴びたことがシドの人生を狂わせたと分析する。
「シドはしょっちゅうトラブルに巻き込まれてた。愛すべきバカだったよ。『やつはいまに死ぬぞ』みたいな空気が世間には流れてた。そういうのって本人を追いつめるもんだろ?」

ロンドンの下町に私生児として生まれ、放浪癖のある母親に連れられて各地を転々とし、ドラッグに溺れる母の姿を見ながら育ったマザコンの青年。自身も薬物に依存するようになったのは自然な流れだったといえるだろう。ロックとドラッグに飢えていた彼の炎にさらに油を注いだのが、アメリカからやってきたナンシー・スパンゲンだった。

運命の出会い

ナンシー・ローラ・スパンゲンはユダヤ系の恵まれた中流家庭に生まれた。
5歳時の知能指数テストで高い数値を示し、小学校時代は成績も優秀だったが、短気で暴力的な問題児でもあった。学校を放校処分になったのが11歳、精神科医に統合失調症と診断されたのが15歳。17歳で家を出てニューヨークに移り住み、ヌードダンサーや売春をして糊口をしのいだ。ずっと日陰を歩いてきたが、気だけは人一倍強かった。

ハートブレイカーズのグルーピーとしてロンドンに渡り、セックス・ピストルズと出会ったのが19歳のとき。ピストルズのライヴを観たナンシーはすっかり気に入ってしまい、メンバーに接近する。
ヴォーカルのジョニー・ロットン(腐れジョニー)ことジョン・ライドンは、シドとナンシーの邂逅をこう振り返る。
「シドがナンシーと寝た翌朝、俺はてっきり、シドが彼女を追っ払うと思ってた。『おい、ビッチ。おまえはもう用なしだ』って。ところが奴はハートをもっていかれちまった。ヤクでボロボロな女にだぜ?」

自分の分身、あるいはライナスの毛布。磁石と鉄のようにぴたりと引き合うものがあったのだろう、と納得するしかない。
ナンシーはけっして誰もがうらやむような美貌の持ち主ではなかった。コロコロとした太めの身体にどぎつい化粧。網タイツに包まれた、お世辞にも魅力的とはいえない脚。おまけに恐ろしく気の強い、情緒不安定で虚言癖のある女。
メンバーはナンシーを毛嫌いし、シドから遠ざけようと画策するが、ことごとく失敗に終わる。やがてふたりは一緒に暮らすようになる。

ピストルズが成功し、大金が転がりこむと、今度は売人たちがふたりをカモにした。シドはナンシーの影響でハードドラッグに溺れ、バンド活動にも支障をきたすようになる。危険なドラッグと過激な愛を提供する女と、そんな女にますますハマっていく男。転落の加速度は増していく。
どちらが悪い、誰のせいという話ではない。誰にも止めることはできなかった。すでにふたりは運命共同体として転がりはじめていたのだから。

ロックは死んだ

『勝手にしやがれ!!』が全英アルバムチャート1位に輝いたピストルズ。ところが、それにつづく初のアメリカツアーで早くもバンドは崩壊へ向かう。
アメリカではさすがに当局への配慮から、「ハードドラッグ禁止」がメンバーに通達された。しかし、ドラッグ抜きのツアーにシドが耐えられるはずがない。薬物に蝕まれて痩せ細った身体。虚ろな瞳。吹き出物だらけの青白い肌。禁断症状が極限に達し、胸にカミソリで“Gimme a Fix(一発くれよ)”と刻み、血まみれになってベースをかき鳴らしていた、あの狂態はダラスだったか。
1978年1月14日のサンフランシスコ・ウインターランド公演で、嫌気がさしたジョン・ライドンは脱退を表明。急遽ツアーは中止となり、バンドは空中分解してしまう。事実上の解散である。かの有名な「ロックは死んだ」発言は、このときにジョンがついた悪態だ。

シドはピストルズの解散に気を落とし、いったんロンドンへ戻る。以降はフランク・シナトラの『マイ・ウェイ』の皮肉たっぷりな替え歌をリリースして全英7位を記録したり、初代ベーシストのグレン・マトロックと組んでライヴを行ったりしていたが、夏にはニューヨークでナンシーと暮らしはじめた。住居に定めたのは、マンハッタンの7番街と8番街のあいだにあるチェルシーホテル。
「Hotel Chelsea」の名を特別なものに押し上げたのは、なによりその滞在客の顔ぶれだろう。ここは多くの芸術家や音楽家、文豪が常宿として愛し、名作を生んできた伝説の場所なのだ。
このアーティストの聖地がふたりの終焉の地となり、のちに世界中のバンクスの巡礼地になるとは誰が予想しただろう。

9月にはマクシズ・カンザス・シティでライヴ。例によって、シドはステージに立っているのがやっとで、歌詞も忘れる始末。超満員の観客から大ブーイングが巻き起こった。
このころからふたりは幻覚をみるようになり、自殺を口にすることが多くなる。もはや自分がどこにいるのか、なにをすべきかも定かではなかっただろう。部屋に出入りするのは売人ばかり。ふたりが意識を失って床に倒れていようと誰ひとり気にしない。絵に描いたようなジャンキーの末路である。

そして10月12日、ナイフで腹部をひと刺しされた血まみれのナンシーがバスルームで発見される。

ファイナル・カーテン

遺体の発見者、通報者はシドだった。
しかし容疑は彼に向けられ、逮捕される。凶器となったナイフの所有者であり、殺害現場にいたという厳然たる事実があった。起訴内容は第二級殺人。逮捕の一報を受けたピストルズのマネージャー、マルコム・マクラーレンはこう豪語したという。
「どんなに保釈金をつんでも釈放させる。今レコードをリリースすれば、もうひと儲けできるから」
シドは条件つきで釈放されるが、その後は荒れる一方だった。彼をコントロールできる唯一の人間は、もうこの世にいないのだ。
このころ、「今、どこか行きたいところはある?」というジャーナリストの質問に、シドはただひと言、“Under the ground(地面の下)”と答えている。ナンシーのいない世界に、もはや居場所はなかったのだろう。

以降も自傷行為や傷害事件をくり返し、12月にふたたび収監。ヘロインの過剰摂取により死亡したのは、保釈されてまもない1979年2月2日。ナンシーを失って4か月後のことだった。
約2か月の勾留期間でクリーンになっていた彼の身体は、以前と同じ感覚で注入された大量のヘロインに耐えられなかった。その高純度のヘロインは、母親のアンがシドに泣きつかれて許したものだ。

死後、レザージャケットのポケットから遺書めいた走り書きが見つかった。
「俺たちは約束してた。死ぬときは一緒だって。俺も約束を守らなきゃ。今ならまだ追いつけるかな。お願いだ、あいつの隣に埋めてくれ。亡骸に革ジャンとモーターサイクルブーツを頼む。バイバイ」
ふたりを一緒に埋葬することはナンシーの両親が拒絶した。シドの母親アンは墓を掘り起こし、シドの遺灰をナンシーの墓に撒くことで、ようやく息子の思いを果たす。

シド・ヴィシャスが死亡したため、被疑者死亡により公判は終了。捜査も打ち切られることになった。

誰がナンシーを殺したか

ふたりの死を純愛ととらえ、「パンクのロミオとジュリエット」と呼ぶ者もあらわれた。しかしナンシーの死の真相は45年を経た現在も明らかになっておらず、パンクシーンに暗い影を落としているのも事実である。
凶器のナイフは指紋が拭い去られた状態で置かれており、支払われたばかりの『マイ・ウェイ』の印税2万ドルが消えていた。
ナンシーの死亡推定時刻には、シドは薬物の過剰摂取で数時間は昏睡状態にあったことが判明している。シドが昏睡しているあいだ、複数の人間が100号室に出入りしたこともホテルが証言した。
これらの状況証拠から、シドによる殺害は困難であり、外部の人間の犯行とする説が生まれた。

ドラッグの売人説

二人にドラッグを売っていた男を犯人とする説である。その男は事件の前日までは1杯のビール代にも困っていたのに、翌日には急に羽振りがよくなり、血痕のついたシャツを仲間に見せびらかしていた。さらにナンシー殺害をほのめかす発言や、殺害を撮影したビデオをネタにした儲け話までしていたというのだ。しかし本人が病死したために真相は謎のまま。

マイケル説

シドの母親アン・ベヴァリーが、シド・ヴィシャス研究の第一人者で作家のアラン・パーカーに再調査を依頼したのは1985年のことだった。11年後、アンは息子の無実を証明してほしい旨を記した手紙をふたたびパーカーに送ったのち、64歳で服毒自殺をとげる。以後パーカーは真相究明のために人生を捧げることになる。
ニューヨーク市警察の捜査資料を洗い直し、200人近くにおよぶ関係者に取材した結果、彼がたどり着いたのは「マイケル」という人物だった。
「そいつは大金を見せびらかして、100号室に『押し入った』と自慢していた男だよ。もちろん、あの夜も現場で目撃されている。やつが持ってた札束はヘアタイでくくられていた。そう、ナンシーのヘアタイさ」

あるいは、事件はとうに解決しているのかもしれない。ジョン・ライドンの言うように。
「いまでも俺は、シドにあんなことができたとは思えない。あいつにあの女が殺せるはずがない。すべては謎だらけ。だけど、本当は謎なんてないのかもな。ヤクをやってりゃなんだって起こる。なんでもありなんだからさ」
「俺はやつを助けたかった。だって、まるでサーカスの見世物だったじゃねえか」

ナンシーは死の直前まで、シドの愛したナイフが自分の腹を貫くとは思ってもみなかったにちがいない。
真相はシドの死とともに葬り去られてしまった。永遠に謎のままのほうがいい。

後日談

事件が起きたチェルシーホテルは悪評が立つ一方で、世界中のバンクスの巡礼地となった。どちらにせよ、ホテルは困惑したことだろう。
シドとナンシーが暮らした100号室近くのエレベーターは、ときおり無人のまま1階で止まり、しばらくドアが開いていることがあったという。そこにシドがあらわれるという風評も流れた。やがて100号室は欠番となり、隣室とつづきのスイートルームやランドリーに姿を変えた。
その後、ホテルはデベロッパーに買い取られ、大規模な改修工事のため一時的に閉鎖。再開したのは2022年のことだ。ちなみに、宿泊料金は1泊345ドルから。

「再結成は100%ない」といわれていたセックス・ピストルズは、1996年に「金のため」と称してオリジナルメンバーで再結成。その後も金のためか、楽しいからなのかは不明だが、気が向いたときに再結成をくり返している。
2006年には晴れてロックの殿堂入り。新たに殿堂入りしたアーティストは授賞式でパフォーマンスを披露するのが慣例になっているが、なにせ彼らは昔から、ロックの殿堂を「年寄りロッカーの死に場所」と罵倒してきたバンドである。殿堂入りを受けて、公式サイトに投稿した声明が案の定ふるっていた。

「俺たちは行かねえ。おまえらの猿回しの猿じゃねえ。詐欺まがいの商売も、称賛も、いいかげんにしろ。おまえらはわかってねえ。クソみたいなシステムの外にピストルズはいるんだよ」

売られたケンカをロックの殿堂が買うのかどうか、下世話な興味をひかれたのは筆者だけではないだろう。主宰者は怒るどころか、「ピストルズは非凡なパンクヒーロー。これこそがロック」と称賛したのである。式典を欠席したアーティストは過去にもいるにはいたが、殿堂入りを拒否したアーティストは彼らが初めてだった。

シドが殺人事件の容疑者になったとき、ピストルズの元メンバーもマルコム・マクラーレンも彼を支援できなかった。この若きパンクロッカーに救いの手を差しのべ、水面下で奔走し、敏腕弁護士を手配して、その費用を全額負担したのはローリング・ストーンズのミック・ジャガーである。彼のサポートに関しては、のちにジョンの発言によって世間の知るところとなる。
「シドが窮地に陥ってたとき、ひとつだけ救われる知らせがあった。ミック・ジャガーが乗り込んでくれたことだ。黙って動いて、自腹をきって……ミックはそれを吹聴することもなかった。心から敬意を表するよ」
ローリング・ストーンズも、ヘロインに溺れたブライアン・ジョーンズを1969年に失っている。

破滅の美学と、それを崇拝する風潮はロックに脈々と息づいている。“Live fast, die young”を地でいくかのごとく、若死にしたレジェンドは多い。けれど、自己破滅型ロッカーのなかでもシドほど生き急いだ人間はいない。ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、カート・コバーンらが名を連ねる27クラブにも仲間入りできなかった。彼らが神に愛されたとは思えない。時代の寵児に神は天罰を用意する。
ボロボロに擦り切れてなお、おたがいを必要としたシドとナンシー。それが純愛だったのか、共依存だったのかはわからない。あまりに多くのことが短期間に起こりすぎた。ふたりは自分の命がどのように尽きたかを理解していただろうか。

多くのフォロワーを生みながら、誰も同じ道を歩けない。嫉妬すら届かない。そんな生きざまもパンクと呼ぶなら、まさしくシドはパンクだった。

後記:ロンドンパンクはダムド派です。ハードコアならアメリカのミスフィッツ。

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コメント一覧 (1件)

  • 初老の自分が、多感な時期にタイムスリップさせてもらったようなストーリーでした。いつも読み応えのあるテキストで感服、大満足です。

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