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不運な運命にたどる「伊号第三十三潜水艦」は呪われているのか?

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21世紀となった現在でも四方を広い領海で囲まれた日本は、その防衛の要の戦力として海上自衛隊における主力は潜水艦が担っており、最新のたいげい型を始め22隻体制でそれを実現する体制を敷いている。
太平洋戦争時と現代とでは艦艇の位置づけや役割も異なるとは言え、やはり海の戦力として潜水艦の重要性は変わらず、当時の大日本帝国海軍での伊号潜水艦の働き聞いたことが無いと言う方は稀だろう。
但しそうした伊号潜水艦の中には、ゲンを担ぐと言う風潮が今よりも色濃かったであろうその時代において、特定の潜水艦で事故が多発し、それらが数時の「3」に纏わると言う有り難くない逸話も残されている。

今回そうした代表例として挙げる「伊号第三十三潜水艦」以外にも、1924年には「伊第四十三」潜水艦が味方の軽巡洋艦との衝突で沈没したり、1939年には「伊六十三」と「伊六十」潜水艦がやはり衝突事故で沈没したりしている。
エジプトのピラミッドの呪いなどのように、不幸にして生じた事故を後付けで事を大袈裟に伝えるつもりはないが、そうも言いたくなる程に「伊号第三十三潜水艦」が辿った艦歴は不運に満ちていた。

目次

伊号第三十三潜水艦の建造

「伊33」潜水艦は日本がアメリカら連合国との太平洋戦争に突入する気配が濃厚となっていた1939年に建造が計画され、当初は「伊号第四十一」潜水艦と命名されて1941年5月に進水を迎えた事から始まる。しかし半年後の1941年11月には「伊号第三十三」潜水艦へと正式名称が変更され(以後「伊33」と表記)、翌年1941年6月に呉鎮守府の第六艦隊第1潜水戦隊第15潜水隊へと就役を果たした。

「伊33」潜水艦は当時の大日本海軍の伊十五型潜水艦の14番艦にあたるもので同型艦は20隻建造され、基準排水量2,198トン、水中排水量3,654トン、全長108.7メートル、全幅9.3メートルの規模を持つ。因みに現在の海上自衛隊で全12隻が就役中で主力を務めるそうりゅう型潜水艦は最終型の場合、基準排水量2,950トン、水中排水量4,200トン、全長84.0メートル、全幅9.1メートルであり、「伊33」の大きさがわかる。

「伊33」の艦級である伊十五型潜水艦は別名は巡潜乙型とも呼称され、その呼び名と先ほどの規模からも分かるように遠洋航海が可能な大型潜水艦であり、太平洋戦争時の主力潜水艦に位置付けられていた。伊十五型潜水艦の主兵装は艦首部に備えた53cm魚雷発射管6門であり17発の魚雷を搭載可能で、同型の「伊19」潜水艦は1942年9月の第二次ソロモン海戦でアメリカ海軍の中型空母「ワスプ」を撃沈する戦果を挙げている。

■ 同型艦伊19
Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

伊号第三十三潜水艦を襲う太平洋戦争時の不運

前述した同型艦の「伊19」潜水艦がアメリカ海軍の中型空母「ワスプ」を撃沈すると言う大戦果を挙げた第二次ソロモン海戦にあたり、「伊33」潜水艦もこれに参戦していたがその運命は真逆であったと言わざるを得ない。

「伊33」潜水艦はアメリカの中型空母である「エンタープライズ」から発艦したSBDドーントレス偵察爆撃機の攻撃を受け、これは回避できたものの戦果は挙げられず当時大日本帝国海軍の泊地であったトラック島に引き上げる。そしてその翌日の1942年9月26日、「伊33」潜水艦は海底のサンゴ礁に衝突する事故に見舞われた後、乗組員の判断ミスから艦内げの海水の流入を招き、水深33メートルの海底に沈み33名とも44名とも言われる犠牲者を出した。

翌1943年1月末に海底から引き揚げられた「伊33」は同年3月に何とか母港の呉に戻った後、同年6月に損傷個所の修復と水上監視レーダー等の新装備を施され、訓練を担う第六艦隊の第11潜水戦隊に再配属された。それから約1年後の1944年6月13日、「伊33」は呉から伊予灘へと訓練の為に出港したが、機関部の機械的なトラブルから浸水が発生、今度は由利島の近海の水深60名メートルの海底へと沈み、102名の死者を出す事となった。

2度目の沈没事故の原因は1度目の修復と改装時に用いられていた木材の破片が引き起こしたものと潜水調査で判明はしたが、台風等の悪天候に見舞われた事も重なり、サルベージ作業は行われず1944年8月に除籍された。

太平洋戦争後も起こった伊号第三十三潜水艦の悲劇

太平洋戦争中に2度も沈没事故に見舞われ痛ましい犠牲者を出してしまった「伊33」潜水艦だが、2度目の沈没が発生した由利島近海からサルベージ作業が行われる事になったのは、それから9年後の1953年だった。太平洋戦争の敗戦から戦後の復興に邁進していた当時の日本では「伊33」潜水艦をサルベージして回収し、引き上げた船体をスクラップとして再利用する事が決定され、1953年7月23日に何とかその作業を成功させる。

このサルベージ作業では「伊33」潜水艦の艦首部の魚雷発射管から内部に入ったが、13名の乗組員の遺体が回収され、加えて30枚に上る遺書が発見された為、乗組員達が凄惨な最期を迎えた事が明らかとなった。引き上げられた「伊33」潜水艦は、そのまま1953年8月9日に広島県尾道市の現ジャパン マリンユナイテッド因島工場(当時は日立造船因島工場)に曳航され、最終的な内部の調査が行われる運びとなる。

7月23日に引き上げられていた「伊33」潜水艦ではあったが、元大日本帝国海軍の3名の将校が艦内に入ったものの何とこの全員が艦内に残されていたガスが原因で死亡する事故に見舞われ、またしても悲劇が繰り返された。こうした悲劇に見舞われながらも「伊33」潜水艦は予定通りにスクラップとしての解体作業が以後は進められ、日本に現存していた最後の伊十五型潜水艦としてその不運と共に姿を消して行った。

■艦内に残されてた遺体
朝日新聞社, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

「3」と言う数字に翻弄された「伊33」潜水艦

これまで見てきたように「伊33」潜水艦は1942年の1度目の沈没で先ず、水深33メートルの海底に沈み、33名以上の乗組員が犠牲となるなど数字の「3」、殊に艦名と同様の「33」が不思議なほどに付き纏った。

「伊33」潜水艦は2度目の1944年6月の沈没では、水深60メートルの海底に沈み、102名の犠牲者を出す事となったが、これらの数字は何れも「3」の倍数とは言え、少し無理やりなこじつけ感がある事は否めない。しかし太平洋戦争の敗戦後となる1953年のサルベージ作業では、艦内に入った3名の元大日本帝国海軍の将校がガス中毒で死亡する事態を迎えてしまい、その不吉な伝説をより悪い方へと印象付ける事となった。

こうした不運にも関わらず最終的には戦後の日本の復興を担う存在として、スクラップとしてでもその一助となった事は、「伊33」潜水艦の艦歴を振り返る中では、若干の救いを感じなくもない。

太平洋戦争においては大日本帝国海軍の駆逐艦「雪風」や航空母艦「瑞鶴」が幸運艦として語られる事が多いが、「伊33」潜水艦の艦歴はある種逆の意味で感慨深いものがあると個人的には思えてならない。

featured image:伊久茂視(投稿者がスキャン), Public domain, via Wikimedia Commons

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