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「いだてん」ほんの少し前の日本とオリンピック

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大河ドラマ「いだてん」が、太平洋戦争の時期を迎え、素晴らしい密度で物語を進めています。
1940年、幻になってしまった東京オリンピックから、1964年の東京オリンピックに向けて、ここからダイナミックに歴史が動きます。

学校のカリキュラムでは、まるでエアポケットのように、大正~昭和といった近代史がおざなりにされている中で、そこを埋めていくように、丹念に市井の日本人の姿を描いているドラマです。

目次

激戦地からの生還

先日の放送で、戦没オリンピアンのことを研究している方のお話がありました。
その時、画面に映ったリストに、バロン西(西竹一)の名前が見えたのです。

映画「硫黄島からの手紙」にも登場した彼は、多くの方がご存知のように、1932年ロサンゼルスオリンピックに於いて馬術大障害飛越競技で優勝、現在に至るまで馬術での唯一の日本人金メダリストになったのです。

馬術は、現代でも決してメジャーな競技とは言えませんが、意外なことに日本人選手が話題になることも多く。
近年の北京オリンピックやロンドンオリンピックでは法華津寛氏が高齢出場者としてニュースになっています。

その法華津氏がまだ若いころ。
実は、前回の東京オリンピックにも出場されています。
その時、日本の馬術競技の教官としてチームに貢献した人物がいました。

一色佐六(いっしきすけろく)氏(明治35年~昭和52年)
私が彼の名前と経歴を知ったのは全く違うところからだったのです。

私の母方の祖父は旧満州で関東軍の将校でした。
陸軍少尉で終戦を迎えています。
本人が多くを語らないままに2001年に亡くなっていますが。
何か手掛かりになるようなものはないか、とネットで少ない手掛かりを検索していくうちにその当時の記録に名前が掲載されていることに気付きました。
カロリン群島のメレヨン島。
激戦地だった、と聞いていますが。
その中でも生き延びて、戦後、一番船で復員できたその生命力の強さは一族の中でも語り草となっています。

そんな祖父が副官として仕えたのが野砲第三大隊本部の大隊長・一式佐六大尉でした。

祖父の世代は、ワープロやネットを使いこなすことができた戦中派のギリギリの時期で、記憶をまとめて自費出版したり、ネットにアップしてくださる方がいたのです。少ないながら、今も残されているその記録に辿り着いたときには、驚きと、自分の知らない祖父の姿、そのイメージの乖離に、何とも言えない感慨を抱きました。

連想ゲームのように、一色氏について調べてみたところ、馬術競技に関してわずかながらお名前を見つけることができたのですが、砲兵隊、馬術、といったワードから広がってくる記憶がいくつも湧き上がってきたのです。
祖父の足の親指の爪は黒くつぶれていました。

「じいじはね、中国で戦争していた時に、大砲の車輪に足をひかれて爪がつぶれちゃったの」と祖母が話してくれた頃、私はまだ幼くて、その状況を想像することができませんでした。

そして、何かの拍子に「じいじはお馬が上手で、陛下にも褒められたことがあったのよ」ということを聞き、その頃自衛隊の技官として定年を迎えて、畑と田んぼと庭いじり、そして時々うどんを作って孫に振舞うのが好きだった祖父の、意外過ぎる経歴に驚いたのです。

馬に乗っていた?
陛下って、まさか天皇陛下?

その当時の、小柄で好々爺な祖父からは想像がつかない事ばかり。

ベルナルド・ベルトルッチの「ラストエンペラー」が公開された1987年。
「この前こんな映画を観たの」と、祖父にその映画のパンフレットを見せた時に、彼は坂本龍一氏が演じた甘粕正彦の写真を見て「いやぁ、甘粕さんはこんなじゃない、もっと普通の…おじさんだったよ」と話してくれたり。

今思えば、満州時代の話や、軍隊の事はあまり話したがらなかったのでしょうが、ときおりそうしてぽつりぽつりと聞かせてくれる昔の話は、少なかったからこそ、とても鮮明に記憶に残っています。

成長するにつれて「満州から南方に派遣された」いう状況の意味とその過酷さを知りましたが。
将校だった祖父の姿と、お馬が上手だった、という祖母の言葉が、一色氏のその経歴を見た時に結び付いたような気がしました。

満州の関東軍で、馬の調教、管理をされていたという一色氏。
そのもとで働いていたという祖父。
洗練された馬術競技でなく、それは日常の軍務として身に習い覚えた乗馬だったのでしょうが。
80年くらい前の祖父の姿が、断片的ながら浮かび上がってきたのです。

豊かとは言えなかった農家の出で、軍隊しか知らなかった彼は復員後にかなり苦労したようです。
それでも数年後に警察予備隊に応募して、航空自衛隊の技官として定年まで勤め上げました。

昭和40年代半ば、退官する直前に出張としてYS-11で千歳基地に行った時には、札幌の時計台の前で撮った記念写真を見せてくれました。
お土産のトラピスト修道院のバター飴を初めて食べた記憶も残っています。

晩年はひ孫を抱くこともでき、とても穏やかな日々でした。
歳を重ねて衰えても、健啖家で、時々鰻を食べることが楽しみだった彼は、21世紀になったその元旦にひっそりと息を引き取ったのです。

その葬儀の準備をしている時に、祖母が戦中戦後の苦労話を聞かせてくれました。
彼女は満州で長女を出産直後に亡くしており、母を身ごもった時にすぐに内地に戻されたのです。
昭和17年の末のことで、まだ戦況はそれほど悪くなかったかもしれませんが。

身重で、しかもたった一人で列車と船を乗り継いで実家に戻ってくる、その壮絶さは想像を超えています。
「でもね、あの時、満州で同じ官舎にいた奥さんたちはみんな戦争未亡人になっちゃったの。うちは、ちゃんと帰ってきてくれたから…」
その祖母も、二年前に亡くなりました。
今でも、ふとした瞬間に、祖父母が作ってくれた料理や、頭をなでてくれる手の温かさを思い出して泣きそうになるのです。

2人の大叔父が残してくれたもの

さて。
もう一つの記憶の端緒は、恐らく私が5歳の頃。
当時まだその家は古い田舎の農家の屋敷で、奥の座敷の鴨居に並んだ二人の若い遺影に気付いたときのこと。
くすんだモノクロの写真が何枚も並んでいるその中に、飛びぬけて若い男性の写真___二人は軍帽を被って生真面目そうな顔で並んでいました。

「だあれ?」
指さして聞く私に、父が「それはパパの叔父さんたちだよ」と教えてくれました。
でも明らかに当時の父より若い二人で、それが私には理解できなかったのですが。
「じいじ(父方祖父)の弟で、二人とも戦争で亡くなったんだ」

父方祖父は、江戸時代から続く農家の長男で、当時は学校の先生をしていました。
彼は6人兄弟。
明治生まれの私の曾祖母は、私が高校生の時に亡くなりましたが。

私の記憶の中にある彼女はいつも渋い色の着物でちんまりと背中をまあるくして、ふかふかの座布団の上に座り、傍にある大きな火鉢にもたれてニコニコしている人でした。
嫁である祖母があまり丈夫でなかったので、父たち5人兄弟を実質育てたのは曾祖母だったそうです。

私たちひ孫の世代が増えてくると、これもまたとてもかわいがってくれて、父はよく顔を見せに遊びに行っていたのです。
古くて暗い家、土間やかまどのある家は、当時、壁板に傷や穴をふさいだ跡があり、後になって聞いたのは、それは戦時中に近くに落ちた爆弾の破片が刺さってできた穴だった、とか。

昔その屋敷の裏庭には防空壕があって、戦中に生まれていた父とその兄はそこに叔母たちに抱かれて逃げ込んだ記憶があったとか、そんな話は、私たちがまだ小学校のころには普通に聞かされていたものです。

その遺影の二人___私にとっては大叔父に当たる彼らは、学徒動員で出征していったのだそうです。
祖父とは年が離れていて、当時まだ幼さが残るような年齢だった彼らは、最後に家に帰ってきたときにも、詳細を語ることなく、そして二人ともが還ってこなかったのです。
もちろん、軍機ですから話せなかったのでしょう。

一人は、黙って、座卓の上に指でサツマイモの形を描いて、島に行くのだとだけ告げたようです。
その遺骨も戻りませんでしたが、記録ではサイパン島で戦死した、とされていたそうです。
もう一人の大叔父も南方で亡くなりました。
いずれも詳細は判っていません。

私の子供時代に、父はサツマイモを見ると、時々この話をしてくれたのです。
「何か、ちゃんと言いたくても、言えなかったんだろうなぁ」と。
悲しむ暇もなく、曾祖母はそれからずっと父や兄、そして妹二人と弟という5人の孫たちを育てて昭和20年代を過ごしていったのです。

そんな大叔父たちの姿が「いだてん」の小松勝(仲野太賀)に重なりました。
勝が“りく”(杉咲花)と結婚して金治(神木隆之介)が生まれたのが昭和15年。
幻の東京オリンピックの年でした。
私の父が生まれたのはその翌年。
長男である伯父はその前年に生まれています。
ドラマの中の幼い金治を見ていると、父たちの幼少期と戦時下の暮らしが浮かび上がってくるようです。

その父たちが成長した時に、意外な形で亡き大叔父らの形見が返ってきました。
軍人恩給、遺族年金です。
今となっては、それがいくらほどのものだったか知っている人は残っていませんが。

母親だった曾祖母に支給されていた二人分の軍人恩給が、父たち次世代の教育に貢献したというのです。
当時、戦後の農地改革で田んぼや畑を失ってしまった祖父は、教師としての給金はありましたが、一族を抱えて戦前に比べると格段に減少した収入でいろいろと苦労していたそうです。

勿論日本全体が貧しい時代でしたが、昭和30年代初頭、5人の子供たちが成長するにつれて、その学資をどうするか、という問題に直面した時に、曾祖母が提供してくれたのが、大叔父たちの恩給でした。
勿論、学ぶ当事者らがそれぞれに当時得られる奨学金をフル活用し、アルバイトもしたそうですが。

それでも、大学進学率が高いとは言えなかった時代に、5人中4人の子供を自宅から離れた大学へ進学させた、というのは凄いことだったと思います。
そのおかげで、次世代である父らは、高度経済成長期にしっかりとした生活基盤を作ることができ、私たちが生まれたのです。

当時東京の大学に進学した父と伯父は二人して杉並にあった退役軍人の家を間借りする下宿で暮らしていた、と言っていました。
170㎝越えの二人が4畳半一間にぎゅうぎゅうになって暮らしていた、という情景は、なんだか「いだてん」の1960年代パートのシーンに重なります。

今、日本に生きている人たちの多くのルーツは、こんな時代を生きてきたんだなぁ、と思うと、「いだてん」に登場する人々がとても愛おしくなりました。

あの日の飛行機雲

最後に。
ミリタリーと「いだてん」を結び付けるもう一つのことを。
東京オリンピックの開会式は、ブルーインパルスの晴れ舞台としても知られています。
映画「ALWAYS三丁目の夕日」でもその飛行機雲が描かれており、同じく「いだてん」でもOPにそのシーンが登場します。

先日「いだてん」の戦後編・追加キャストの発表があり、その中でブルーインパルスの一番機パイロットであった松下治英氏を駿河太郎さんが演じると報じられました。
ああ、きちんとそのプロセスもドラマの中で描かれるのだ、と知った時、思わず笑ってしまいました。

開会式当日の朝のドタバタは、古参のブルーインパルスファンの間では語り草なので、是非クドカンさんの筆で、そこまで描いていただきたいですね。
残念なことに、松下さんご本人は、ほんの少し前、今年の五月に亡くなられたとのこと。
ドラマも、本番のオリンピックも、観て頂きたかった・・・と思っています。

リアルを極めていくというのであれば、航空自衛隊の黎明期の様子も再現していただけたら嬉しいですね。

まとめ

「いだてん」ここから昭和39年のオリンピックに向けて、ドラマはクライマックスを迎えます。
宮藤官九郎と言う人の頭の中は一体どうなっているんだろう、と思うほど、ごく物語の初期にまいた種が半年以上のドラマを経て芽吹き、広げまくった風呂敷は見事に畳まれようとしています。

まるであの時代を見てきたかのような表現や、微に入り細に入り違和感のない流れを丹念に作り込むその濃厚な密度の物語の中に、私が勝手に見つけてしまった自分のルーツとの接点を、今度は私が生きているうちに、子供にきちんと話をしておかなければならないなぁ、と思うようになっています。

市井の人の喜びや哀しみ、小さな歴史は埋もれて消えてしまうのが関の山ですが。
明治どころか、昭和が“時代劇”になってきた感のある令和の今。
こんな形でいろいろと掘り起こし、ぐいぐいと引っ張り上げ、丹念に表してくれたこの作品に感謝したいです。

親世代、祖父母の世代を想像して、このドラマを見てみませんか?
自分のルーツがいろんな形で平成→昭和からその先へと遡っていくのは、ちょっと興味深いものですよ。

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