徳川家康影武者説~大坂夏の陣討死伝承と南宗寺に残る墓の謎~

歴史は勝者によってどこまで書き換えられているのだろう。為政者にとって不都合な真実を抹殺したものが正史だとしたら、わたしたちの知る歴史はどこまでが史実といえるのだろう。

古くから影武者説がくすぶり続ける徳川家康に、また新たな謎が浮上している。大阪の陣で家康は死亡し、最後の11か月はダブルがいたというのだ。終焉の地は駿府城ではなく、大阪の南宗寺。この伝承を裏づけるかように、境内には「東照宮 徳川家康墓」と碑銘が刻まれた墓がある。
慶長20年5月7日、茶臼山の徳川本陣でいったい何がおきていたのか。

徳川家康は何度も死ぬ

歴史上の人物の墓所がいくつもあるケースはめずらしくない。それどころか、戦で討死した人物の墓は、むしろ複数ある場合が多い。写真や映像といった記録を残せない時代では死に至る経緯が不明瞭になりやすく、どこかへ落ちのびたという設定も生まれやすいのだろう。

けれど、こと家康にかぎってはこのケースにあてはまらない。正史によれば畳の上で死んだことになっており、その最期は確認されたはずなのだから。
元和2年4月17日、家康は駿府城にて満73歳で没した。遺言通り、遺体は久能山(現在の久能山東照宮)に埋葬され、一周忌後に日光(現在の日光東照宮)へ分霊された。幕府の文献に「改葬」と記されていることから、天海主導による日光への改葬が長く信じられてきたけれど、昨今は疑問視されており、日光へ運ばれた柩の中は空だったとする見方が有力になっている。埋葬場所がどこにしろ、おそらく土葬で分骨ができないことを考えると、遺体は一か所に葬られている可能性が高い。

そんな状況のなか、新たに注目を集めているのが堺の南宗寺にある家康の墓。当寺に伝わる『南宗寺史』によると、家康は大坂夏の陣で死亡したというのだ。桶狭間の戦い後の暗殺説、関ヶ原の合戦直前の暗殺説、そして今度の大坂の陣討死説。この人の死亡フラグの立ち方は異様としか思えない。

大御所どの、御首ちょうだいつかまつる!

さて、問題の大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦い。まずは家康が討死したという茶臼山の激戦を「正史」で振り返ってみたい。
慶長20年5月7日の昼すぎ、天王寺口の茶臼山にあった真田信繁(幸村)は、豊臣方の敗色濃厚とみるや、ただ家康の首のみをとる捨て身の勝負にでる。銃撃のなか、眼前の越前兵を突き崩して徳川本陣に斬り込んでいく信繁。さすがは歴女諸姉にも人気の高いサナユキさまである。くやしいがかっこいい。

真田隊・毛利隊らに強襲された徳川本陣は大混乱。馬印まで引き倒されてテンパった家康は、自害すると言って家臣にいさめられる。
信繁はくり返し突撃するも、ついに太刀先は届かず、力つきる。その後、幕府軍は態勢を立て直す。豊臣秀頼と淀殿が自刃し、大坂城が紅蓮の炎に包まれて落城したのは、夕刻とも、翌8日の未明ともいわれる。ここまでが、わたしたちの知る歴史だ。

一方、南宗寺の寺史『南宗寺史』は異聞を伝える。
混乱のなか、家康は駕籠に乗せられて脱出。ところが運悪く、豊臣方の後藤基次(又兵衛)に見つかってしまう。当然のごとく駕籠を怪しむ基次。槍で駕籠を一突きするが、穂先に血がついていなかったためやりすごすという、らしからぬ大チョンボ。突かれた瞬間、家康が声を押し殺し、引き抜かれた穂先の血をとっさにぬぐったとしたらアッパレである。
ところで、この後藤基次。彼が茶臼山に登場したと聞いて「?」と思った方もいるだろう。この件については後述します。

さて、もちろん家康は深手の重傷。南宗寺まで逃れて駕籠の戸を開けてみると、すでに絶命していたという。
色を失ったのは側近たちだ。この時点で、まだ大阪城は落ちていなかった。大御所の死が知られれば、離反者がでるのは必至。すでに虫の息の豊臣に息を吹き返されては困るのだ。彼らは家康の遺体を南宗寺の開山堂の床下に密かに葬り、その死を秘匿した。

時代が下り、昭和の堺大空襲で開山堂が焼失した際、その場所から無銘の墓石が見つかった。これこそが家康の本墓といわれる墓である。

南宗寺に残る家康の墓

大阪に家康討死伝承が残るのは、もしかしたら豊臣びいきの土地柄のせいかもしれない。上方の人々は、家康が堺で死んだことにして溜飲を下げたかったのかもしれない。
とはいえ、本陣が壊滅状態に陥った状況をみるかぎり、『南宗寺史』の記述はあながち創作とも思えないのだ。加えて、同寺の墓が本墓であることを裏づけるかのような史実や話も残っている。

無銘の墓は当時の住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)が建てたもの。この人物を、徳川家は厚く庇護したという。また、秀忠から家光に将軍職が譲られた元和9年には、二人が相次いで南宗寺に参詣している。徳川家にとって特別な場所だったことがうかがえる。現在、開山堂跡にある無銘の墓標のかたわらには、幕末の幕臣・山岡鉄舟の筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との銘がある。

昭和の戦災で焼失するまで、この地に堺東照宮があったことも見逃せない。東照宮跡の「東照宮 徳川家康墓」は、昭和42年に水戸徳川家家老の子孫が建立したもの。唐門の屋根瓦や塀の瓦には三つ葉葵の紋。

こうしたことをふまえると、家康と南宗寺は深いゆかりがあると思わざるをえないのだ。

伝承と正史、正しいのはどちら?

ただし、この討死伝承にはつじつまの合わない点もある。
まずは後藤基次。幕府の正史『徳川実紀』によると、基次は前日の道明寺の戦いで討ち死にしたことになっている。南宗寺もまた、4月28日の堺焼き打ちで全焼したことになっている。これを信じれば、家康が死亡した5月7日に南宗寺はなかったはず。現在の南宗寺は数年後に再建されたものだという。焼け跡にどうやって遺体を隠したのか。

いや、それよりも焼き打ちは本当に4月28日だったのか。基次は本当に前日に死んだのか。タイミングがよすぎはしないか。これらは家康の死を秘匿するために捻じ曲げられた歴史ではないのか。ここまでくると、正史を信じるか、『南宗寺史』を信じるかという話になってくる。

さらに謎をはらんでいるのが、日光東照宮の宝物館にある家康の駕籠。夏の陣に用いたこの駕籠の屋根には小さな穴があいている。
くっきりとあいた真ん丸の穴で、下まで貫通していることから、槍による傷ではなく鉄砲の弾痕とみられているのだが、言い伝えによると、撃った人物は真田信繁。家康の命を奪ったのはじつは信繁の鉄砲で、それが基次の槍にすり替わってしまったのだろうか。

徳川家康が大坂夏の陣で討死したという記録は、『南宗寺史』以外には残っていないそうだ。徳川の世が続くなか、不都合な真実は徹底して闇に葬られた可能性も否めない。仮に討死が事実だとすれば、以後250年にわたって徳川家のトップシークレットであり、タブーだったはずである。
けれども、このさき確たる証拠がでて、伝承が事実認定されたとしても、家康の個人史以外の正史はおそらく揺るがないだろう。

ここまで書いてきてこう言うのも気がひけるけれど、古代史最大のスターの虚構説さえ唱えられている今、家康の死が11か月早かったところでなんということはない。

※画像はイメージです。

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