瀬名姫のちの家康正室の築山御前と井伊家の関係。

  • 2021-05-21
  • 2021-05-16
  • 戦史
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井伊家は今川の占領下、永正の乱から20年歳月が経つというのに三岳城は今川氏の城番が入っているが、これが三岳城だけであったか、井伊谷城も接収され井伊谷全体に及んだのかは、はっきりとした史料はなく可能性として井伊氏や直虎に関して非常に造詣が深い。

龍潭寺の武藤全裕閑栖(前住職)が井伊谷城も今川氏に接収された可能性を述べ、そして直虎の生まれ場所は居館ではなく分家井平氏の支配圏の川名あたりなのでは、という可能性で、証明できる史料がないのがですが、井伊直平の妻が井平安直の娘、そのこ井伊直宗の妻が井平直郷の娘、井伊本家と分家の井平は、この頃から非常につながりが強かったようです。

そして今川氏の異変が井伊家と今川氏の南北時代からはじまる敵対、確執が和らぐ時期がきます。
今川氏では大永6年(1526年)6月23日、今川氏親が54才(56才説も)で病没、その後を継いだな14才の氏輝ですが、国政を担当するには若く、母の寿桂尼(じゅけいに)が後見、いや実権を握り女城主といより女戦国大名と言ったところでしょうか、この寿桂尼が今川氏を牛耳ります。

氏親の亡くなる70日前に制定された「今川仮名目録」も寿桂尼が中心となって作られた可能性が高い。
「今川仮名目録」とは領国の新しい裁判基準を定めたもので、東国で制定された最古の戦国大名分国法です。

氏輝が成長しても寿桂尼は後見役を務め、そんな中で天文4年(1535年)、甲斐の武田信虎に侵略されて合戦となり、平穏だった駿河領内がにわかに騒がしくなり、しかも天文5年(1536年)氏輝が24才の若さで死去、二男の彦五郎も亡くなる兄弟同時とは何か陰謀かと思わせますが記録はなく、大きな謎です。

そして氏輝の死で後継者問題が今川氏に浮上、寿桂尼は自らが生んだ残る息子の栴岳承芳(後の今川義元)還俗させ、太原雪斎(たいげんせっさい)を軍師にして、側室の生んだ承芳より年上の兄の玄広恵探を還俗させ、恵探を担ぐ福島安房守に対抗、世にいう花倉の乱は今川氏の家臣のほとんどが寿桂尼が推す承芳方となり、家督相続争いは決着、承芳は義元を名乗り今川氏九代目当主となり、寿桂尼のバックアップのもとさらには太原雪斎という軍師の補佐役、雪斎は政治・外交・軍事を担う今川氏になくてはならい存在となります。

雪解けのように義元が当主になって2年か3年後、つまり天文7年か8年の頃、三岳城は井伊家に返還され、駐留していた兵も井伊谷から引き揚げます。どうやら今川氏は不自然な状況の井伊家を遠江の国人領主とする必要があり、井伊家と今川氏の間で話し合いがもたれ、井伊谷を返還する代わりに、井伊直平の娘を人質として送ることとなったようです。

そして直平の娘は今川氏の人質となりなすが、この直平の娘に義元は手を出したとういう説があり、義元は身籠ったのを知り、有力家臣の関口親永(氏広、氏興とも)に自らの妹ということにして下げ渡し関口親永の妻におさまり、義元の手つきの子を生み、そして瀬名姫後の築山御前を生みます。

この瀬名姫後の築山御前と徳川家康の存在は、井伊家にとっては大きな恩恵となりますが、それはずっと後のことで井伊直平の孫娘であることは間違い事実のようだと言われています。しかし井伊谷、三岳城に井伊家がもどれましたが、井伊家のいばらの道はこの先も続くのです。

※画像はイメージです。

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