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応仁の乱で西軍についた井伊家の不運

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井伊家と相性の悪い今川氏が遠江守護を外れた応永26年(1419年)、斯波氏が世襲するようになっていました。
井伊家は南北朝時代、南朝方にあり後醍醐天皇が頼みとする新田義貞、畠山顕家両翼を失い京へと戻る悲願を果たせぬまま崩御してなお、宗良親王を井伊谷に招き入れ、足利軍と戦いますが、敗れて降伏。
遠江守護は目まぐるしく入れ代わり、応永26年の頃には斯波氏が守護職となっていました。

この頃、井伊家は国人領主として勢力を回復、そこに起こったのが応仁文明の大乱(1467年~1477年)です。
京の都を焦土とかし11年にも及ぶ争乱は、足利八代将軍・義政と正室・日野富子のいわば夫婦喧嘩からはじまります。
義政は側室も含め子がなく、弟・義視を養子とし、管領・細川勝元を後見人に将軍後継者と決めしたが、皮肉なことに結婚10年がたって富子は身籠り、義尚が生まれました。

当然、富子はわが子を将軍にしたい、ですが義政は約束は破れないと取り合わず、夫婦は憎しみ合うようになり、夫婦喧嘩が合戦へと発展してしまいます。

富子は実力者の山名宗全に、息子の義尚の後見人になってくれるよう頼み、勝元と宗全は婿と舅の間柄ではありますが、反目していて、さらに斯波氏と畠山氏の両管領家の家督相続争いも絡んで、京のど真ん中で東軍と西軍に分かれて合戦となったのです。
京は荒廃、この合戦もわけがわからない合戦、義政と勝元が義視をもてあますと、宗全が義視に味方、そして敵であったはずの勝元が富子に味方、富と蓄積を喜び富子は、敵の将にも金を貸し、そして最もおかしなことは、合戦の発端である張本人の義政と富子は同じ屋根下に住み続けたこと、この可笑しく奇妙な合戦は間違いなく足利幕府の威信を衰えさせ、下克上の気風が生まれ、戦乱は地方へと拡大、戦国時代の幕開けとなります。

駿河守護今川氏、この時代は6代の義忠が家督を継ぎ東軍につき、一方、遠江守護の斯波氏は西軍に与していました。
かつて遠江守護であった今川氏は遠江を取り戻したかった。

そんな今川氏の気持ちを汲むように義政は文明5年(1473年)11月、義忠に遠江掛川庄の代官職を命じました。
また連歌師で義忠に仕えていた宗長の「宗長手記」には河勾庄(浜松市南区河輪町)も賜ったとあります。
今川氏にとっては嬉しいことですが、斯波氏はわが領土を蝕まれたようで不愉快極まりないことです。

その斯波氏は管領として幕府の要職でありますが、家督争いが応仁の乱の一因、今川とは反対の西軍の将、斯波氏は世襲分国として、越前・尾張、それに遠江の三国の守護でありますが、守護本人は遠江に下向せず、守護代の甲斐氏も越前と兼務で遠江に来ることはなく、年貢の徴収などは有力国人に委ねられていました。

こうした状況下、井伊家もそうですが、遠江の国人たちは、それぞれ力をつけていき、大きな勢力になり始めます。
駿府に近い東遠江では横地・勝間田、中央では狩野・堀越、西遠江では井伊・浜名・大河内の各氏です。
今川義忠の掛川代官に抵抗した見附城(静岡県磐田市)の狩野宮内少輔を義忠は攻めて生害させます。

斯波氏も黙っておれず、文明7年(1475年)斯波義寛は守護代甲斐敏光と遠江に入り、今川軍と戦うが、攻防戦は一進一退を繰り返し、文明8年(1476年)2月、義忠は横地氏と勝間田氏の城を攻めるため出兵、これを攻略しました。
しかし、その帰路、塩買坂(菊川市)で残党の夜襲にあい、義忠は流れ矢にあたって落命、この義忠の妻である北川殿の弟が北条早雲です。

北川殿が生んだ龍王丸はまだ4才にすぎず、家中に内訌が起き、早雲は姉のために働き、龍王丸を当主にし、長じて氏親を名乗り22才のときに早雲の全面協力で遠江進攻開始します。氏親としては故地である遠江を奪い返す。

それは悲願といえ父義忠の復讐もとげ、遠江を手に入れて守護になることこそが、おぼろげな姿しか知らない父への供養と考えたのかもしれません。
そして果たせるならば遠江を制圧、三河まで進出、室町幕府から独立した戦国大名となると決意したのかもしれません。

遠江進攻の指揮を担ったのは早雲、数千の兵を率いて、中遠江の北部に位置する佐野・山名・周智の3郡に乱入、斯波氏の軍勢を駆逐、有力国人・原氏の高藤城(静岡県掛川市)を奪取、東遠江から中遠江までを支配下に治めます。

さらに早雲が指揮する今川軍は永正3年(1506年)、1万の軍勢で東三河に攻め込みますが、この8年前の明応7年(1498年)8月に起きた大地震で浜名湖と遠州灘を分けるベルト状の海岸線が破壊され、浜名湖と外海がつながり、ここを通っていた東海道での移動ができなくなり、東海道の脇往還の姫街道を移動するしかなく、姫街道は井伊家の支配圏すれすれ通るため、氏親は家臣の伊達蔵人忠宗に命じ大量の人員を動員し、井伊谷から三方原に出るすぐ近く、都田川の河岸に刑部城を築かせます。
さらに、その約1.2km西に堀川城を築かせ、忠宗に両城を守らせます。

これにより早雲の三河進攻が容易になったのです。
刑部・堀川の両城は斯波氏に与する井伊家と引馬城の大河内氏を遮断、斯波氏方にとっては苦しいものでした。
この頃の今川軍の強さには、井伊家ら斯波氏側は手も足も出ない状態でした。
ところが永正5年(1508年)10月、岩津城(愛知県岡崎市)を攻める早雲の率いる今川軍は、岩津松平氏の抵抗に苦慮、そして敵援軍の到着で敗北を恐れて三河から撤退、これに遠江の斯波氏方は活気づき、その一方、早雲の目は伊豆から相模へ東に向かい、今川氏から独立、遠江や三河に出向くこともなくなりました。

そんな最中、斯波氏は越前を朝倉氏に奪われ、尾張では守護代の織田氏が台頭、足元がぐらつき頼みは遠江守護を堅持することでした。
井伊家ではこのとき、井伊直虎の曽祖父にあたる井伊直平が当主で、斯波氏は斯波義達が家督を継いでいて、5000の軍勢を率いて遠江に入り、井伊直平、引馬城の大河内貞綱の連合軍で、刑部・堀川両城を守る今川方の伊達忠宗との間で、しばしば合戦がおこなわれますが、決着がつきませんでした。

この一連の戦いは永正7年(1510年)末のことで「永正の乱」と呼ばれています。
今川氏親と今川軍団は既に早雲の力を借りなくても、十分に戦えるまでに成長、今川勢は間者を巧みに使って斯波方を撹乱、義達は井伊谷城の北方に位置する三岳城の近くの崖に守られた月光山宝光庵(牧の寺ともいう・浜松市北区引佐町花平)を陣所としていました。

永正7年12月28日夜、陣所は放火され、義達は陣所を移さざるをえなくなります。
しかも年明け早々、移ったばかりの花平の陣所に今川の間者が忍びこみ、再び火を放ち消失、井伊直平がいた三岳城の麓の番所も夜襲されて燃えてしまいます。

これだけではなく、斯波氏の家臣たちの陣所も何ヵ所か火をかけられ、野宿せざるを得ない状況、井伊家にしろ斯波氏にしろ、その守りがいかに甘かったかがわかります。ここに斯波軍は1500で刑部城を囲みます。

だが城はは都田川と一面の沼地の中にあって、容易に落ちず井伊軍は400を出し、大河内軍も加勢しましたが城を抜くことができませんでした。斯波氏と井伊家の軍勢が堀川城のある下気賀に打って出たのは永正9年(1512年)4月の田植えの季節、田植えした苗を踏みつけ荒らし実った麦を薙ぎ倒します。

これに今川勢が伏兵で横から攻めかかり斯波氏と井伊家の軍勢は撤退を余儀なくされました。
これかは井伊家の史料や記録のようなものがなく、今川方の史料によれば翌閏4月、今川方の居城になっていた浜名湖を望む志津城を、斯波・井伊・大河内連合軍が攻め、麓の根小屋(城下町)を焼き払い、この時に刑部城から伊達忠宗が舟70艘を出して今川軍の劣勢を挽回、そして翌日、井伊谷に朝駆けして3人を生け捕りにして退き、こうした戦いが1年5ヶ月続きます。

この一進一退の決着をつけるべく出馬したのが、今川氏の重臣・朝比奈泰以(あさひなやすもち)で、泰以の兄・泰煕(やすひろ)は掛川城を任され、早雲ともに今川氏の総大将をつとめる勇将、ですが永正8年(1511年)に死去、子の泰能(やすよし)が家督を継ぐが、まだ15才と若年のため泰以が泰能を後見します。泰以が泰能を後見して2年目の永正15年(1513年)または翌11年(1514年)、井伊家の三岳城をせめました。

その実態は、攻撃年も定かではないほとま史料に乏しく、ただ連歌師・宗長の「宗長手記」に「また大河内、信濃・三河・尾張と語らい大乱を企て、今度は氏親公自ら御進発、笠井庄楞厳寺に馬を留め諸軍勢、天竜川を渡り大菩薩(浜松市三方原近く)という山に着陣、北に井伊次郎(次郎は井伊代々の総領名)深獄(三岳)という山あり、武衛(斯波義達)は覚悟し、また牢人以下集まって篝火ひ暁の星のよう、泰以は易々陥落させた」泰以によって三岳城は落ち、井伊直平は城を追われ、北方の山間地に身をひそめ、分家である井伊氏の支配地に済ます。

井伊安直の娘が、直平の妻だったからです。
そして三岳城は今川方が占領、その管理は城番に指名され、奥三河作手(愛知県新城市)の武将・奥平貞昌に任され、また同盟関係にあった引馬の大河内はなおも抵抗、一旦は尾張に逃れた斯波義達も、再び遠江に入って戦いますが、永正13年(1516年)6月、引馬城は陥落、大河内父子は切腹、義達は捕らえられます。

しかし氏親は斯波氏が同じ足利一門であることから、義達を許し、義達は出家し尾張に帰りますが没落の運命をたどり、一方の今川氏は遠江守護となり、駿河と遠江2ヶ国の戦国大名に踊り出て、井伊家は今川の占領下で苦しめられるのです。

※写真はイメージです。

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