直親が朝比奈泰朝に謀殺され主のいない井伊谷へ、朝比奈泰朝率いる軍勢が攻めてきました。
井伊谷城に残る井伊一族と家臣は、武器が不足し思うように防戦できず、長年の功績ある家臣たちも残らず討死してしまいます。
さらに朝比奈泰朝の軍勢は、三岳城め攻めこちらも難なく落城してしまいます。
井伊家は直宗が三河田原城攻めの戦いで、数多くの家臣たちと共に討死、さらに桶狭間の戦いで直盛が数多くの家臣たちと共に討死。
駿府で直満・直義兄弟が有能な家臣たちと共に謀殺、そして直親が18人の優れた家臣たちと共に謀殺され、井伊家はまさに戦力不足、将兵の数が激減、戦費の支出も莫大、困窮していました。
そのため井伊谷城、三岳城ともにまともな抵抗すらできないまま、朝比奈泰朝率いる軍勢に攻められ落城してしまったのです。
そして井伊谷攻めは懲罰的な意味合いが強いのと、簡単に落城したため、城と周辺はさほど破壊されませんでした。
事実、龍潭寺も無傷で、また朝比奈泰朝率いる軍勢は、すぐに引き上げていたからです。
さて直親の遺骸ですが、生き残りの足軽や中間に担がれ、直親の屋敷のあった祝田(現・静岡県浜松市北区細江町)まで運ばれます。
謀殺時、朝比奈泰朝にとられた首は、南渓和尚が蜂前神社(現・静岡県浜松市細江町祝田)の荻原宮司を使いに出して掛川城からもらいうけて戻り、遺骸は頭と体を一緒にして棺に納められ、屋敷近くの都田川の河畔で焼かれ荼毘にふされました。
直親を焼く炎は大きく夜空を焦がし、川面を赤く染め、直虎は直親の妻を痛々しく思い、元許嫁とこんな別れがあるとは思いも寄らなかったことでしょう。
直親の墓は都田川と堤防の中間にある平場に建てられ、その堤防を挟んだ場所に菩提寺として大藤寺が建立され、寺名は直親の法号「大藤寺殿前肥州太守剣峯宗慧大居士」にちなんでいます。
龍潭寺の末寺でしたが、いまは廃寺となり墓だけが、当時の場所から200m離れた西、川とは反対の堤防下にあります。
ところで葬儀の時、直親の妻の姿はありましたが息子虎松姿はありませんでした。
直親が謀殺された時、虎松も殺害するように氏真から命令は出されますが、駿府にあった新野親矩が命がけで虎松の助命を氏真に嘆願、やっとの思いで許されますが、いつ氏真の気が変わるともかぎりません。
親矩は母親から虎松を預り、新野屋敷で保護、小野但馬守にわからないように母親と虎松を安全な場所に匿います。
親矩は直親の未亡人と悲しみと怒りを共有、それは小野但馬守により奥山因幡守朝利が殺害されていて、直親の未亡人は朝利の娘で親矩の妻は朝利の妹、つまり仇敵が同じため、母親と虎松を親矩は守り抜く決意でした。
さて、直親が謀殺されてしまい井伊宗家で生き残った男子は直虎の曽祖父の直平だけ、直平のとりわけた血を引く者はみな死んでしまい、残るは曾孫で女の直虎だけ、やむなく齢74才の直平が井伊家を再び差配するしかありませんでした。
永禄6年(1563年)9月上旬、今川氏真はようやく父義元の弔い合戦に動き出し、直平にも三河への出陣を命じてきました。
氏真より遅れて井伊谷を出陣した直平率いる井伊部隊は、浜名湖の西岸を南下、東海道の宿場のある白須賀に野営、時は遠州灘から強風が吹き荒れ、不幸にも陣内から失火、火はたちまちに燃え広がり町中に飛び火、これを氏真は井伊家の謀叛と疑います。
なにしろ直親が謀殺された直後であり、また相次ぐ井伊家総領の死により、井伊家の今川氏への怨念は深いことを氏真もよく知っていて、その上にこれから攻める前面には信長・家康の敵勢、この状況に氏真は慌て、後ろから井伊部隊に攻められてはたまらない。
挟み撃ちにされると考えた氏真は恐怖から、陣をたたみ東海道を避け、山側を逃げるように掛川城まで撤退してしまい、その後、直平の陣の火災が単なる失火と分かっても、一度芽生えた直平への不信感は消えませんでした。
氏真は家臣の飯尾豊前守に指図、直平を毒殺させてしまいます。直平享年75才でした。
直平の死により井伊家は遂に家を継ぐ成人の男子を失ってしまったのです。
井伊家から成人の男子が消え、井伊家は立ち行かなくなり、そこで残された策はもう次郎法師、直虎しかいないのです。
次郎法師は男性名、ですが姿かたちは女、つまり尼僧、この彼女が男として生きなければならない時がきたのです。
時に永禄8年(1565年)のことです。
日時までは不明、ですが龍潭寺に発給した文書が9月15日、おそらくその数ヶ月前でしょう。
才知に富み、武勇に優れた南渓和尚は直虎の母の祐椿尼と相談、直虎を井伊宗家の棟梁とすることを決めました。
ただ「井伊家伝記」をはじめ龍潭寺の記録など、井伊家の史料には彼女が還俗して、直虎を名乗ったとするものはなく、ただ次郎法師とあるだけ。
直虎とあるのは蜂前神社の文書、彼女が次郎直虎と署名した花押があり、今現在で徳政令に関係する、この一通以外で直虎と書かれたものは存在しません。
花押とは他人の模倣、偽作を防ぐため自署に変わって図案化した記号、公家や武将が花押をもって自分が発給した文書の証とし、花押を用いていましたが、女性の文書はおそらく直虎だけ。
今川氏の女大名と異名をとる寿佳尼は花押の代わりに「歸(とつぐ)」の印判を用いた例があり、また播磨の守護だった赤松政則の後室の洞松院尼も印判を用いていましたが、直虎の場合は花押、彼女がまがいなく男として生きたら証、尼僧の衣装を脱ぎ捨てて還俗、直虎として雄々しく生きた証なのです。
僧になり女を封印し続けた直虎ですが、円熟した女の魅力は隠しようがないですが、優雅な装いは捨て、凛々しく男の姿になり、日々たくましく生きます。
小野但馬守が近くにいるものの、直虎が井伊谷城の女城主となったことで、を隠していた虎松も母親と共に井伊谷城の居館に戻ります。
そして直虎は、虎松の養育をすること決め、いずれは虎松に井伊宗家をと考えていました。
自らが南渓和尚から伝授されたことを虎松へと教え、文武両道に通じる井伊宗家総領にするため、それぞれ師となる者も招いて、直虎は虎松を養育したのです。
ところで直虎が井伊宗家総領を継ぐことを、氏真があっさり認めていますが、それは祖母・寿佳尼がそうした立場に長くあり、しかもこの時、まだ健在で影響していたと考えられ、さらに小野但馬守も直虎を女だからくみやすしと甘く考えていたのだとおもわれます。
ともかく井伊家は直虎を頂点に新たな船出が始まるのでした。
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