1945年8月ソ連軍侵攻時、大陸の日本軍戦車部隊の活躍は全くと言って良いほど記録が無いが、いったい何をしていたのだろうか。
1945年8月のソ連軍侵攻時、占守島での戦車第11連隊の奮戦は有名である。しかし同時期に中国大陸にあった日本軍戦車部隊、特に戦車第3師団はほとんど戦闘らしい戦闘をせずに終戦を迎えてしまったようである。ところが地味な作戦ではあるが戦車第3師団に属する95式軽戦車の部隊が浸透してくるソ連軍と対峙した例が二つ、個人の文献に記録されている。
1945年8月13日
そのひとつ目は、1945年8月13日。戦車第3師団隷下の戦車第17連隊第1中隊の内藤大尉に命じられた、張家口から数百キロも先の内モンゴル西ソニット方面への戦略斥侯である。
モンゴル方面からなだれ込んで来るソ連軍の動向を探るためには、本来は偵察機で高空から写真撮影でもするべきであるが、飛べる飛行機がないというが簡単な理由であった。
そして8月13日の夕方、内藤大尉率いる軽戦車3両は歩兵1個分隊と燃料を載せたトラック2両と共に張家口を出発、茫漠たる平原地帯を北に向かった。
張家口北方50キロの張北
ところが夜遅くに張家口北方50キロの張北に着くと、後退して来た特務機関員の情報から、すでに西ソニットにはソ連のザバイカル方面軍が進出、更にこちらに迫りつつあることを知り、早くもここ張北で部隊は反転することに。
しかしここで戦車の一両がエンジン故障で自走できなくなってしまった。貴重な戦車を放棄するわけにも行かず、とりあえずトラック2両は先に帰らせ、内藤大尉の戦車隊は後ろから迫りくるソ連軍の前を、故障車をけん引しながら時速8キロでノロノロ走行。
ソ連軍の予想外の進撃スピード
ソ連軍の進撃スピードは予想外に早く、戦車の砲を後ろに向けて警戒しながら走るにつれて、後方のなだらかな段状に拡がる平原の中にソ連軍の先頭部隊のかすかな光芒が見え始め、その光芒がじわじわと明るさを増してきた時には全員死を覚悟したとある。さらに周囲の暗闇の中には八路軍と思われる兵が出没するので、炸裂しない徹甲弾を撃ち込んで威嚇。
また敵戦車には効果はないと知りつつも道路にアンパン(対戦車地雷)をばら撒きながら後退を続け、夜明けにはかろうじて張家口の城門まで辿りついたという。
95式軽戦車では
しかし、装甲も武装も貧弱な95式軽戦車ではソ連軍のT34に追いつかれたらひとたまりもなかったであろう。あまりにも早い段階でソ連軍の浸透の速さに気付き反転したことが幸いして、殆ど被害を受けずに帰還することが出来たが、中途半端にさらに前進して居れば、部隊は確実に全滅したはずである。
これは航空機が行なうべき戦略斥侯を戦車に命じた前代未聞の作戦であった。
だが、内藤大尉に与えられた命令はこれに留まらなかった。
(以下は後編に続きます。)
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参考文献
PHP研究所 稲垣武著 「昭和20年8月20日 内蒙古・邦人四万人奇跡の脱出」
出版協同社 原乙未生・栄森伝治・竹内昭 著 「日本の戦車」
※写真はイメージとして使用しており、記事の内容との関連はありません。
icon image: By US Navy [Public domain], via Wikimedia Commons
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コメント一覧 (2件)
ノモンハン戦から学び、戦車と戦術を進化させ、T34を主力にドイツ機甲部隊に勝利したソビエト。
片やノモンハンから何も学ばず、役立たずの95軽や97チハを使い続け、M3軽にも勝てないままM4の前に玉砕、国も崩壊/敗戦のバカ帝国陸海軍・・・
貴重な記事ありがとうございます。