MENU

1945年8月ソ連軍侵攻 その時日本軍戦車部隊は何をしていたか(2)

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

ソ連軍の侵入と終戦の混乱の中で、戦車第17連隊の内藤大尉が受けた更なる命令とは?

目次

もうひとつの命令

終戦間際に戦車による戦略斥侯と言う前代未聞の命令を受けた内藤大尉の部隊は、さらにもうひとつ、次の命令を受けることになった。

8月15日の終戦を過ぎても、北京の北方約200キロの張家口近郊では、さらに侵攻を続けようとするソ連軍と、4万人もの在留邦人の撤収が完了するまで侵攻を防ごうとする日本軍とが対峙して激しい戦闘が続いていた。

そして8月21日在留邦人の輸送にようやくメドが立ったため、張家口郊外で激戦を続けていた部隊にも撤退命令が出されたのであるが、その命令を伝えに行ったのが、これまた内藤大尉率いる軽戦車2両であった。

張家口郊外の丸一陣地で戦っていた独立混成第二旅団はたったの5個大隊。70人の戦死者を出したが何度も見事にソ連軍を撃退し、すでに疲労困憊の極みであった。

そこに現れた内藤大尉

そんなところに現れた内藤大尉の2両の軽戦車。それだけでなく後衛の援護ためにと随伴した2門の機動90式野砲を見て、旅団の辻田参謀は非常に頼もしく思うと同時に、内藤大尉にある重大な事を願い出たのである。

By Sturmvogel 66 (Own work) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

「撤退命令はありがたく受領しました。貴官の任務はここまでである事は重々承知の上でお願いするのですが、我が旅団が無事陣地撤退を終わるまでの数時間、後衛部隊となってこの街道を封鎖してもらえないだろうか。」

それは要するに死を覚悟の捨て駒となって、撤退部隊への追撃を少しの間だけでも阻止して欲しいという切実な要請であった。願い出た辻田参謀の気持ちを理解した内藤大尉は、命令違反を覚悟でそれを引き受けることにした。

封鎖する場所は

封鎖する場所は張家口・張北を結ぶ街道と外長城線とが交差するなだらかな峠の頂上で、膠着状態にある中で日本軍の撤退を察知されたらいつソ連軍が突破してきてもおかしくない状況である。

内藤大尉は2両の95式軽戦車を街道の切通しに2列横隊に並べて、たとえ戦車が破壊されても道路上に戦車を擱座させ道を通行不能にするようにした。さらに随伴してきた90式野砲を長城から砲身だけを覗かせるように配置。車載機銃も外して長城の上に配置して、旅団の撤退を援護したのである。

宵の口に始まった旅団の陣地撤収は夜半にはようやくすべて完了、部隊は闇夜に紛れて陣地を後に張家口に向かって後退して行った。そして翌日未明、部隊がかなり進んだだろうと判断した内藤大尉は封鎖を解除して旅団の後を追ったのである。その間ソ連軍の戦線は幸いな事に何事もなく静まり返ったままであった。

そして翌22日午前7時ごろ、旅団の先頭が張家口に到着。しかしすでに張家口には八路軍が侵入していたために迂回してさらに南進、8月27日に無事に万里の長城を越えることが出来た。

作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

これらの記録は

これらの記録は些細なもので、個人の貴重な手記が残されていたおかげで今に伝えることが出来るが、戦車第17連隊の部隊歴には記されていない。ちょうどこの時期には連隊主力は天津にて終戦命令を受領し8月23日には河北省に移動、同地の警備任務に就いた後、11月末には資材を中国軍第109師団に移管し、中国軍に対して戦車引き渡し及び戦車の教育に当たったとされている。

終戦後も数か月の間は日本軍戦車部隊として大陸の警備任務に当たっていたのであり、当時の現地の情勢からはその間にも様々な事があったと想像できるが、もはやそれを語る人も無く残された資料も何もない。

参考文献
PHP研究所  稲垣武著 「昭和20年8月20日 内蒙古・邦人四万人奇跡の脱出」
出版協同社  原乙未生・栄森伝治・竹内昭 著 「日本の戦車」

※写真はイメージとして使用しており、記事の内容との関連はありません。
icon image:作者 U.S. Army Center of Military History [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

どんな事でも感想を書いて!ネガティブも可!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次