数多ある戦国時代の籠城戦で岩屋城の籠城戦、この籠城戦は籠城した将兵700余全員が戦死した。
この岩屋城の戦いほどの籠城戦はありません。
九州の覇者であった大友氏に仕えた猛将の高橋紹運という武将、大友氏の重臣で大友氏の軍師であった立花道雪と並ぶ猛将です。
紹運は若い頃より冷静沈着、寡黙な反面その一言は重い、勇敢な人柄であったと伝えられています。
紹運の玉砕した岩屋城があったのは九州筑前の要地、紹運の本拠の城、宝満城には入らず岩屋城に入り最後の戦いに挑んだのでしょうか。
当時の九州状勢は天正6年(1578年)11月の耳川の合戦で島津義久の島津軍が大友宗麟の大友軍を破り、そこから大友氏の衰退が始まります。
島津氏は6年後の天正12年(1584年)沖田畷の合戦で当時、島津氏同様、勢いがあった龍造寺氏の大軍を撃破し龍造寺氏を降伏させて残るは大友氏を降せば、島津義久の念願の九州統一が成る寸前の状勢下でした。
ですが大友宗麟は当時天下統一を目指していた豊臣秀吉に援軍を要請、秀吉は援軍を了承します。
当時、秀吉は徳川家康と対峙していて、すぐに大軍を九州へ派遣できる状況ではなく、秀吉が派遣したのは四国勢のみの6000だけでした。
しかしそれでも秀吉が大友氏に味方した意味は大きく、島津義久は秀吉本隊の大軍が来る前に九州を統一して、その余勢で本州へと殴り込む算段で大友領の筑前へと進攻したのです。
この5万の大軍、かたや岩屋城に籠城しているのは高橋紹運以下700余名、普通の武将ならどうしたでしょうか・・・降伏します。私もその場にいたならば降伏します。
どう転んでも勝ち目などありません。
しかし紹運以下700余名は島津軍5万に戦いを挑みました。
紹運だけでなく島津軍に対して大友軍の取った戦略、それは専守防衛、城の堅守して出来る限り時間を稼ぐ事にあり紹運も、その戦略に沿う形で岩屋城に籠城。
更に当時は立花道雪は亡くなり大友氏の西の守りの要の1人はいませんでした。
道雪亡き後の立花家を継いだのは紹運の実の子で道雪に頭を下げられ、養子にだした立花宗茂、紹運にて若い猛将でしたがまだ若いため紹運は自ら盾となり島津軍5万の大軍を岩屋城へと誘き寄せます。
玉砕覚悟で最後の戦いに挑んだのです。
島津方は再三の降伏勧告を拒み紹運は最後を迎えます。
共に死を迎える家臣たちにも、戦いの最中も毅然と紹運は振る舞っていたのでしょう。でなけば城兵ことごく討死なんてないですから。
ちなみにこの岩屋城の戦いで島津軍の死傷者は4500を数えたそうです。
紹運以下700余名が死ぬ気で戦ったのですから、島津軍の将兵はかなり肝を冷やしたかもしれませんね。
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