平安中期に女流歌人として輝きを放った、和泉式部のスケールの大きな歌の世界を紐解いてみたいと思います。
和泉式部とは
和泉式部は越前守大江雅致の娘であり、中古三十六歌仙と称され紫式部と同世代である。大江氏は、山城国乙訓郡大枝郷を本貫とし、天穂日命の後裔と伝わる野見宿禰を氏祖とする土師氏を源流とする。
和泉式部は、和泉守であった橘道貞の妻となり、娘の子式部内侍が誕生している。年代は共に西暦999年頃と定かではない。ちなみに「和泉式部」という呼び名は夫の任国が関係している。
その後、橘道貞との婚姻が破綻し、幾つかの恋愛経験を経た後、武勇をもって知られた藤原保昌と再婚した。その後、最愛の娘の小式部内侍が藤原公成の子出産後に死亡することによって、和泉式部は仏教に傾倒してゆき、仏門に入り、性空上人からもらった袈裟を着て命を終えたという。戒名は、誠心院専意法尼であった。
平安時代の和歌の世界において、女性が能動的に恋愛の歌を詠んだという点で、和泉式部は傑出している。
後世に作られたものであろうが、和泉式部の肖像を視るとはっきりとした顔立ちの美人であり、目に意志の強さがうかがえる。
紫式部は和泉式部のことを天才肌であると記しているが、歌人の基礎として、万葉集、後撰和歌集や漢詩文を勉強しており、努力家でもあった。
子式部内侍の文才
子式部内侍も母の文才を受け継いでいて、「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」の和歌を遺している。この和歌は、「お母上に、応募作の代作の作成をお願いする使者をもう送りましたか?」という意地の悪い質問を四条中納言から受けたとき、即座に詠んだものであるということである。
この和歌の趣旨は、「大江山を越えて近くの生野(京都府亀岡市内の古地名)へ向かう道でさえ行ったことがなく、母のいる遠方の天橋立(父親の任官の地である越前の国を臨む地である)の地を踏んだこともなく、母からの手紙もまだ見ておりませんの」である。
「生野」と「行く野」、「踏み」と「文」が巧に掛け合わされた言い回しであり、「代作をお願いしたのですが、まだ返書を見ておりませんの、しかたがないので、この歌は、私が今作りましたの」などのウィットの効いた皮肉もたっぷり含まれた和歌なのだ。
四条中納言は、噂とは異なる子式部内侍の優れた和歌作成能力に驚嘆し狼狽して、礼儀としての返歌もできず、その場を立ち去ったという。この和歌には、視界を遠くに移して天橋立を望むなど、母譲りのスケール感もある。
私の好きな和歌
和泉式部が詠んだ私の好きな和歌を3首ほど。
「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」
物思いをしていると、沢を飛び交っている蛍の光も、自分の身から離れてさまよい出た魂ではないかと見えたことだ。(やや漠然とした恋に対するあこがれの歌)
「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」
私が死んだら私がいなくなるこの世とは別の世界において、あなたのことを思いだせるように、今一度お会いしたいものです。具体的なはっきりとした相手に対する恋の歌で、まるで死後には月世界にでも行くような宇宙的な拡がりを感じさせる(スケールの大きな和歌である。)
「とどめおきてだれをあわれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり」
娘は私達をこの世に残して逝ってしまったが、誰のことをいちばん可哀そうであると思ったのかというと、やはり自分の子供のことであろう。娘が亡くなったことを私がこんなにもつらく思うように。
(娘の小式部内侍を失った悲しみの歌であり、深い悲しみを、強い心と強い言葉によって、具体的には予想文形と断定文形とを組み合わせることによって、最短文として見事に表現している。)
和歌は、その和歌を遺した人の人となりをよく表していると思う。
featured image:Hannah, Public domain, via Wikimedia Commons
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