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大国主命の国譲り、出雲文明の不思議?

個人的な見解ですが・・・高度な文明を築きながら大和朝廷の要求に応じて、大和朝廷の組織にすんなりと吸収され合併されてしまった出雲文明の不思議さについて分析してみました。

目次

出雲文明と大和朝廷

出雲文明と大和朝廷の間のコンタクトがのっぴきならない状況になってきたころは、個々の農業技術、家屋や武器の製造技術、および海運技術のレベルついては、両者は拮抗状態に達していたと考えられます。

出雲文明は、島根県の海沿いの地域の文明ととらえがちですが、実際は「古志」と呼ばれていた。現在の福井県、石川県、富山県、新潟県(越の国)などの地域と海運による交易などでリンクされた広い地域の文明ととらえるべきでしょう。実際に技術指導者が古志から出雲地方に派遣されることもありました。
古志は、巨大木造建築の跡が発見された三代丸山縄文遺跡のある東北地域に隣接しています。近年、出雲の猪目洞窟遺跡の人骨のDNAを調査したところ、東北の人達のDNAに似ているという結論になったようです。

出雲文明

政治的には、出雲文明は中央集権化がなされておらず、島根県付近の区域のみの中央集権化であったのでしょう。それに比べて、大和朝廷の方は、中央集権化が進んでいた東アジア諸国との接触もあって、出雲文明よりはるかに中央集権化が進んでいたのだと思います。戦争になれば、分散した組織の国よりも、中央集権化されていて、組織的に戦える国の方が有利です。さらに加えて、遺伝子的な苛烈さにも差がありました。

出雲の国の大国主命が、サメを騙したためにサメに皮を剥がれてしまって苦しんでいる因幡の白兎に、「ガマの穂綿にくるまりなさい。」と手当の方法を教えて、命を助ける話があります。このことは、こんなことを言うと怒られそうですが、出雲の国の人々が大和朝廷下の人々より心情的にやさしかったことを示しているようにも思います。
日本全国の人々を遺伝子型で分類すると、チベットの人達や中東の一部の人達と共通の遺伝子、つまり縄文人型遺伝子と、古代中国の長江流域の人に多かった遺伝子とが主になるそうです。要するに、縄文人型遺伝子の人達の方が、おだやかな人が多いのだとおもいます。

国譲りと大和朝廷

国譲りをさせるために、大和朝廷は同時に文官と武官とを出雲の国に派遣しました。文官が国譲りの利点を説き、武官が最新武器の鉾を海岸の砂浜にさかさに刺して、言い換えれば、あめとむちを示して了承を迫ったとのことです。

大国主命はやむなく国譲りを了承し、その代わりとして壮麗な屋代の建設を大和朝廷に要求しました。立てられた屋代は巨木より成る柱の上に建てられ、頂部の高さが地上50メートルに近かったということです。これが、出雲大社のもととなりました。実際に建築されたことが、巨木を3本ずつ束ねた柱の一部が最近発見されたことによって裏付けられました。

三代丸山の巨大木造建築の技術が使用された可能性もあります。なお、出雲大社は何回も倒れたことがあり、そのつど、再建されて現在に至り、現在の出雲大社の高さは創建時に比べかなり低くなっているようです。

※画像はイメージです。

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