MENU

御巣鷹の尾根に散った520人の命・・・JAL123便墜落事故

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

機体異常発生から32分、機長をはじめとするクルーらの決死の操縦も空しくJAL123便は524人もの人々を乗せたまま御巣鷹の尾根に激突、墜落してしまう・・・時刻はすでに日没。

家族は、友人は、同僚は一体どうなったのか。
夜間のJAL123便捜索活動、そして登山道すら整備されていない山間での救助活動は混迷を極めていた。

目次

見つからない地獄

JAL123の墜落地点特定は非常に難航した。
日没時刻を過ぎてから墜落した事やGPSシステムなど正確な位置情報を特定するシステムがまだ実用化していない時代であり、レーダーでは正確な場所の特定が困難だったことが主な要因と考えられる。

18:56にJAL123がレーダーから消えた時の機体計測位置は、東京救難調整本部発表位置も航空自衛隊発表位置も実際の墜落地点とは異なっていた。

捜索には航空自衛隊(空自)、陸上自衛隊(陸自)、アメリカ軍、そして「不審な動きをする飛行機を目撃した」、「山間に飛行機が消えるのを見た」という通報が多数寄せられた長野県警や現場周辺の消防団など多くの機関が参加。
19:25頃には「JAL機行方不明」の一方を掴んだマスコミもいち早くこの惨事を伝えようと墜落場所特定に向けヘリを飛ばしていた。

事故調査報告書によると、最初にJAL123墜落場所の手がかりを掴んだのはアメリカ軍だった。
19:15、アメリカ軍の軍用輸送機がレーダーから機影が消失した地点付近で火災を発見、自衛隊に連絡し引継ぎを行う。

次いで19:01に緊急発進した空自のF-4戦闘機が19:21に、20:30頃に災害派遣要請を受けて派遣された空自のヘリも20:42に相次いで炎を確認し通報。
21:00頃には取材のためにヘリを飛ばしていた新聞社も炎を目撃し、山間で「何か」が炎上する様子を写真に収めている。

ここで問題となるのは、空自が確認した現場位置と、新聞社が確認した現場位置が違った点だ。
空自の通報を元に自衛隊が発表した墜落場所は長野県。
新聞社は測定の結果、「現場は群馬県」だと主張。
当初から捜索に当たっていた長野県警も目撃情報や周辺の初期捜索から「現場は群馬県」だと主張したのだ。

自衛隊も新聞社も確認できたのは炎だけで、墜落した機体までは確認できていないため、どちらの墜落場所が正しいか断定することはできない。事故の翌日8月13日、空自が4:40頃、長野県警のヘリは5:37に空からそれぞれJAL123機体の残骸を発見し、墜落現場を特定する。
しかし、この段階でも空自と長野県警がそれぞれ測定した現場位置は長野と群馬で異なっており、関係者を大いに混乱させることとなった。

8:30頃、長野県警のレスキュー隊が墜落現場付近に降下して、ついに現場を地上から確認する。
この時点でJAL123墜落から約13時間30分が経過。

正しい現場の位置は長野県警や新聞社らが主張した「群馬県」だった。

地獄での救助活動

その後、自衛隊、警察、消防本部や消防団、地元猟友会、日本赤十字や関係市町村など多くの人々が救助や後方支援に奔走する。

大破したJAL123が散乱する事故現場はまさにこの世の地獄だったという。無造作に地面に転がる誰の物ともわからぬ千切れた腕や脚。機内座席のシートベルト位置で真っ二つとなった上半身と下半身。事故の衝撃により内臓が飛び出てし、人としての原形を留めぬ遺体。
墜落時に加わった力のせいで1人の人間の頭部に別の人間の頭部がめり込み、3つ目の状態で発見されたかつては別個の人間だった者達。

黒く焼け焦げた素肌をさらし無言で何かを訴えかける昏い目。
死体に触れる機会がある者ですら、嘔吐や全身の震えが止まらなくなる者が多数出たという凄惨な現場であったそうだ。

乗客乗員全員が絶望的との空気が漂っていた10:50頃、群馬県上野村の消防団と長野県警が機体の残骸の中から生存者を発見する。場所は墜落現場からやや斜面を下った沢の底で、偶然にも火災を免れていたのだ。

生存者は女性(34歳)と女児(8歳)の親子、女子中学生(12歳)、非番で偶然JAL123に乗り合わせた客室乗務員の女性(26歳)の4人だった。4人とも重傷を負い、特に8歳の女児は発見時の脈が弱く危険な状態だった。
事故現場から自衛隊ヘリで4人の救出が開始されたのは13:05、全員のヘリへの収容が完了したのは13:28だった。

生存者発見からヘリ引き上げまで約3時間も要したのは、自衛隊との連絡がうまく調整できなかったためとも言われている。
事故翌日の生存者発見の一報に「自分の家族も無事なのでは」「あの人もきっと無事なはずだ」という大きな希望を抱いた搭乗者の家族や友人・知人、関係者も多くいた。
しかし、最終的にはこの4人以外、生存者が見つかることはなかった。

520人もの犠牲者

4人の生存者発見後も救助、捜索活動は続いたものの、結局その後新たな生存者は確認されず、日本航空123便墜落事故は乗客505人、乗員15人、520人が犠牲となる未曾有の大惨事となった。

犠牲となったのは、お盆を実家や故郷で過ごそうとした家族連れや観光や行楽を楽しんだ若者・子ども達、仕事を終え、家族や大切な人が待つ場所へ帰ろうとしていたビジネスマン達だった。ある会社ではこの事故により社員の多数を失ったり、少ない社員数でやってきた中小企業の社長が犠牲となりして経営に窮した企業もあった。
犠牲者の中には48人の小中学生や12人の幼児らも含まれ、生後わずか3カ月の赤ん坊も犠牲になっている。

著名人も多く犠牲になった。
犠牲者の中で特に有名だったのが「上を向いて歩こう」等数多くのヒット曲を輩出し、「九ちゃん」の愛称で知られた歌手・タレントの坂本九氏だ。

坂本氏は普段であれば、国内の飛行機移動には必ず全日空(ANA)を指定していたが、この便だけは、ANA便が満席だったため、飛行機やホテルを手配した者がやむを得ずJAL便の席を確保した。
そんなANAびいきの坂本氏のことを知っていた家族はJALが乗客名簿を発表する時まで、夫が父がJAL123に乗っているなど信じていなっかたという。

坂本氏は歌手等の芸能活動以外にも、1964年開催の東京パラリンピックの費用を寄付するためチャリティーコンサートを行ったり、日本で初めての手話の歌を全国ろうあ者大会で披露するなど多岐にわたる福祉活動にも積極的な人物だった。
1985年は坂本氏はレコードレーベルを移籍するなど、歌手としての活動を再び本格化させようしており、その矢先の事故であった。
坂本氏死去のニュースは事故発生から4日後、8月16日に我々の知るところとなり、彼の家族、親族、知人だけでなく、日本中に驚きと深い悲しみを与えることになった。

また、犠牲者の中にはハウス食品工業(現・ハウス食品グループ本社㈱)2代目代表取締役社長の浦上郁夫氏がいた。
ハウス食品は日本国内、大阪・兵庫の食品関連会社を標的とした企業脅迫事件、「グリコ・森永事件」の中で脅迫を受けていた1社であった。

1984年11月にハウス食品は「かい人21面相」と名乗る犯人から現金1億円を要求する脅迫状を受け取っている。
犯人が捕まらぬまま(現在も犯人は捕まっておらず、2000年公訴時効成立)、不安な日々を過ごしていた同社だったが、1985年8月11日にかい人21面相より、「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送りつけられ、事件は突然の終息を迎えることとなった。

事件の犯行終息宣言を受けて、浦上氏は初代社長である父の墓前にこの事を報告すべく、8月12日、都内から墓のある大阪に向かう。搭乗したのがJAL123便であった。
ようやく長く苦しい日々から解放された直後の事故であり、本人もきっとやり切れない気持ちが大きかったであろう。

残された遺書

JAL123の残骸からは奇跡的に5人の人間が書いた遺書が見つかっている。
異常発生から墜落まで約32分間。
機内の乗客達が揺れる機体と言い知れぬ恐怖から生まれるパニックと戦っていたであろう最中に残されたものである。

あるビジネスマンの遺書は、自らの上着の胸ポケットに収められていた。
自らの言葉をなんとか家族に届けたいという思いからであろう、機内に備え付けられていた紙袋に言葉を残し、袋の中に自分の運転免許証を忍ばせたビジネスマンもいた。

遺書が確認された者のうち、4人が働き盛りで自分の帰りを待つ家族がいるビジネスマンだった。
死を覚悟する中で頭に浮かんだのが、残さざるおえなくなった家族のことだったのだろう。
そのどれもに「我が子を頼む」、「しっかり生きろ」、「今迄幸せな人生だった」という悲痛な願いと感謝の気持ちがが綴られていた。

また、1人の乗客女性はフライト時刻表の余白に、自らの心の叫びを自身の名前と共に綴っていた。
「恐い 恐い 恐い 助けて 気もちが悪い、死にたくない」。

死にたくない・・・それは犠牲となった520人の心の内を代弁する言葉だった。

墜落の原因は何だったのか

なぜ多数の乗員乗客を乗せたJAL123は墜落し、520人もの尊い命は失われたのか。
事故発生当日の8月12日のうちに、事故の調査を任された航空機の専門家らによる航空事故調査委員会が組織され、その墜落原因解明の任務にあたった。

なお、日本の航空事故調査委員会(現・運輸安全委員会、以下事故調)は、全日空機雫石衝突事故(1971年に岩手県雫石町上空でANA旅客機と航空自衛隊戦闘機が衝突・墜落した事故。ANA機は空中分解し、乗客乗員162人全員が死亡した。)をきっかけに設置された組織である。

また、調査にはJAL123、ボーイング747SR-100型機の製造元であるボーイング社やアメリカにおいて輸送関係で生じた事故に関する調査を行う国家機関、国家運輸安全委員会(以下、NTSB)の代表らも事故原因解明支援のため調査に参加した。

8月13日、海上公試中の海上自衛隊がJAL123飛行経路下の相模湾で偶然にも同機の機体尾部を発見。
調査の要となるブラックボックスの回収は8月14日と記録されている。

調査開始当初、ボーイング社の態度は頑なだった。
同社は事故調に対し「機体に硝煙反応がないか調べてほしい」と依頼したり、回収された事故機の隔壁を試薬で拭き取って爆発の形跡がないか入念に調査していたという。

極めつけは、NTSBの調査官がボーイング社の専門家に回収された隔壁の破壊面の型を取るよう頼んだところ、「隔壁は墜落の衝撃により損壊したのは明らかなので、調べても無駄だ」とし、NTSBの依頼を拒んだことだ。

ボーイング社は頭からこの墜落事故が、テロやなんらかの爆発を伴う事象にJAL123が巻き込まれたことにより起きたものだと決めてかかっており、修理不備というボーイング社のミスにより起きた事故ではなかったと証明するために行動していた。

調査に決して協力的とは言えない製造元に抗い事故の真相を究明するにあたって、設置されて10年と少し、航空事故の調査経験が豊富とは言い難い日本の事故調はやや力不足であった。

代わって早期の事故原因発見に力を貸したのがNTSBだった。
NTSBは生存者の「ボーンという音がして耳が少し痛くなり、客室内が真っ白になった」という証言や相模湾で回収されたJAL123機体の破片から油圧作動油が吹き出したと見れれる形跡などを発見したことから、圧力隔壁の破損が垂直尾翼の破壊や油圧作動油の消失に繋がったのではないかと推察。

現地調査でJAL123の後部圧力隔壁を念入りに確認する。
その過程でボーイング社により修理された同機の隔壁の一部が規定とは異なる状態であったことが発覚した。
9月6日、アメリカ・ニューヨークタイムズが、「日本航空123便墜落事故の原因がボーイング社の修理ミスにあることがアメリカ側の調査により判明した」と報じる。
この報道を受け、ボーイング社は1978年に起きた日本航空115便しりもち事故でJALから依頼された機体隔壁の修理に不備があったことを認めた。

JAL115便しりもち事故

1978年6月2日、乗客乗員394人を乗せ羽田を発ったJAL115便は、大阪・伊丹空港に着陸する際、機長、航空機関士の操縦ミスにより事故を起こす。滑走路への進入時、最初の接地で機体が浮上し、2度目の接地で機体胴体の後部の下部を滑走路に擦り付けてしまい、機体がしりもちをついたような格好になったのだ。

この事故による死者はいなかったが、2人が重傷、23人が軽傷を負い、JAL115便は中破。
左右の主翼着陸装置に傷痕が生じ、機体の後部胴体下部が大きく損傷、圧力隔壁(適正な気圧を保つ必要がある与圧エリアとそうでない非与圧区域を隔てる機体の設備)に亀裂が入った。

JALは115便を伊丹空港から羽田空港に移した上で、同機の製造元であるボーイング社に修理を依頼する。
ボーイング社から示されていた修理計画自体は適正なものであったが、実際の作業現場で同社の作業員達はこの修理計画とは異なった修理を機体に施していく。

修理計画によれば本来、損傷した圧力隔壁の交換部分と他の部分との繋ぎ目に挟むスライスプレートと呼ばれる部材は1枚でなくてはならなっかた。しかし実際の修理箇所では2枚に切断された部材が使用されており、リベットと呼ばれる接合部品2列分で結合されていなければならい箇所が実質1列分の部品で接合されている状態になっていた。
そのため、この修理された圧力隔壁は圧倒的に強度が不足していたのだ。

JAL123は元から「爆弾」を抱えながら飛んでいたようなものだったのだ。

公表されたJAL123墜落の事故原因

大枠の事故原因発覚後も事故調は現場検証や関係者への聞き取り、関係企業に対する事情聴取、事故当時を再現した実験などを通じて真相解明に従事し、事故から直に2年になろうという1987年6月に航空事故調査報告書として公表した。
報告書の中では、JAL123の異常発生と墜落の経緯について、当日の天候、機長、副機長、航空機関士の技量、航空保安施設や航空管制機関の機能、平時の整備状況に問題はなかったとしている。

その上で事故の直接原因は、機体の後部圧力隔壁の損壊にあるとした。
後部圧力隔壁の損壊により機内で急減圧が起き、機体内から噴き出した圧力によって尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統が破壊されたため、JAL123は操縦不能状態に陥り、山間部に墜落するに至った。

飛行中に後部圧力隔壁が損壊するという、本来あり得ない事態が起こったのは、疲労亀裂によって後部圧力隔壁の強度が少しずつ低下し、ついにJAL123の飛行中、客室与圧に耐えられなくなったためと推定される。

疲労亀裂は1978年にボーイング社が後部圧力隔壁の修理を行った際、その修理が適切ではなかったために発生。
その不適切な修理により発生した亀裂を修理以後の点検整備で見つけられなかったことが後部圧力隔壁損壊に繋がったと考えられる、と発表した。

1985年9月、JAL123墜落場所を管轄する群馬県警は捜査本部を設置しJAL123便墜落事故捜査を開始、JAL115便しりもち事故の際の修理を担当した技術者から事情を聴くため、アメリカにまで渡った。しかし、ボーイング社は群馬県警の事情聴取に応じず、修理担当者を特定することすらできなかった。

ここでもボーイング社の抵抗にあったのだ。
1988年12月、群馬県警はJAL社員12人、運輸省(現・国土交通省)職員4人、そしてボーイング社の修理担当者4人は不特定のまま、合計20人を業務上過失致死傷容疑で前橋地方検察庁に書類送検したものの、前橋地検は書類送検された20人全員を「嫌疑不十分」として不起訴処分とする。

この処分を不服とする一部の遺族は1989年12月、検察審査会(国民の中から選ばれた11人の検察審査員で構成される組織。検察官の不起訴処分の当否等を審査する)に不起訴不当を申し立てた。遺族らの申し立てに対し、検察審査会はJAL社員2人とボーイング作業担当者2人の計4人については不起訴不当と判断。

再び前橋地検の捜査が始まったものの、1990年7月、この4人は再度不起訴処分となり、その後1990年8月12日、公訴時効が成立。
JAL123便墜落事故について関係者の誰もが刑事責任を問われないことが確定した。

※画像はイメージです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

どんな事でも感想を書いて!ネガティブも可!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次