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日本で初めての原子力被爆による死亡事故〜東海村JCO臨界事故

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人類史において、原子力についての研究が始まったのが19世紀、その後、原子力という巨大な力を利用し始めたのが20世紀になってからだ。

現在、発電への利用という形で、原子力は私たちの生活に寄与している。
しかし、例え平和利用であっても、この力は時として人間に牙を向くのだ。

目次

未曾有の事故発生

1999年9月30日、株式会社ジェー・シー・オー(住友金属鉱山株式会社のグループ会社。以下「JCO」と表記)の茨城県那珂郡東海村にあるJCO東海事業所(以下「工場」と表記)では普段と変わらず作業が行われていた。

JCOは当時、住友金属鉱山株式会社が行っていたウラン再転換事業を承継し、原子力発電用の核燃料製造における中間工程を担っていた企業だ。

この日の午前中、工場では委託されていた高速増殖炉の実験炉「常陽」で使われる高濃縮ウランを製造しており、ちょうど現場ではウランを硝酸に溶かし、均一にする作業が行われていた。
作業にあたっていたのはA氏(当時35歳)とB氏(当時39歳)の2人と、作業現場そばの壁1枚隔てた隣室に現場責任者でもあるC氏(54歳)がいた。

10時35分・・・A氏とB氏による作業中、突如として作業現場で青い閃光が発生し、警報音が鳴り響く。

作業現場から漏れた光とこの警報音を聞いたC氏は、なにが起こったのか、いまいち飲み込めていないA氏とB氏に向かって叫んだ。

「臨界だ!すぐ外に出ろ!!」

青い光の正体と3人の被爆者

3人が目撃した青い光。
これは作業工程で扱っていたウラン溶液が臨界に達し、大量の中性子線が放出されたために発生した光だ。

原子力分野における臨界とは、核燃料(今回の場合、ウラン)が核分裂して中性子が飛び出し、新たに飛び出た中性子が次の核分裂を引き起こすという連鎖反応が持続している状態を指す。

原子力発電所では、原子炉を臨界状態に保つことで発電を行っているのだが、原子炉は外部に中性子線などの放射線が漏れないよう、万全の対策がとられている・・・とられているはずである。
しかし、この事故ではそういった放射能漏れに対する策がないままの状況で、突如、臨界状態を引き起こしてしまった。

中性子線は放射線の一種で、浴びれば命の危険すらある人体にとって有害な物質だ。
防護するもの、防御するものなどなにもない状況で3人の人間が直にこの中性子線を浴び、被曝してしまったのだ。

危険に晒された住民たち

中性子線の放出はJCO東海村事業所内部に留まらず、何も知らない一般の人々が生活する敷地外へも急速に広がっていった。

10時35分の臨界から約2時間後の12時30分頃、臨界事故発生を知った東海村役場は、日本政府や茨城県の判断を待たず、住民たちに防災無線で屋内退避を呼び掛け始めた。屋内退避を呼び掛け始めた時点では、東海村役場もこの臨界事故がどれほど恐ろしいものか、正しく認識できたわけではないようだ。

JCO臨界事故、そして東日本大震災時に発生した福島第一原子力発電所事故を経た今でこそ、原子力、放射能に対する危機感が薄いと言えるのかもしれないが、当時は原子力の平和利用について、まだまだ安全神話や原子力関連企業への揺るぎない信頼感があった時代であったのだろう。
原子力の専門家でもない人々に、この状況の危険性を端から理解していてしかるべき、というのも酷な話だったのだと思う。

特に東海村はJCO以外にも、日本原子力研究所が(現:独立行政法人日本原子力研究開発機構)日本初の原子炉を完成させたのを皮切りに、現在でも同機構を含め、数多くの原子力関連施設が点在する原子力の町だ。
こうした施設があることによる人口の増加、原子力関連法人からの税収、交付金といった原発マネーによって、原子力に対してむしろ良い印象を抱いていた人も多かっただろう。

その後、専門家やJCO職員らから中性子線の恐ろしさについて説明を受けた東海村役場は、14時30分頃に住民たちの避難を決定。事故現場から半径350 m以内に居住する世帯への避難要請、半径500 m以内に居住する世帯への避難勧告などを実施した。

避難対象となったのは約50世帯で、臨界からはすでに約4時間が経過している。
東海村役場では職員たちが避難誘導の任を担った。
1世帯ずつを訪れ説明をして退避を促し、移動困難者たちには手を貸し、対象世帯が避難を完了した頃には、すでに辺りは暗くなっていたそうだ。

無事、避難は完了したものの、結局は約200人の住民、役場関係者、中性子線に曝されるリスクを知らぬままにJCO作業員の救助にあたった人々や消防隊員などを含め、事故調査委員会が認めただけでも合計667人が被曝した。

事故を収束させた決死隊の存在

9月30日の10時35分以降、JCO東海村事業所内の作業場で臨界状態は続いていた。
そんな中、JCO社員内で決死隊を募り、臨界状態終息に向けての作業が始まる。

当初、事故終息に向けての行動を取ってこなかったJCOだが、事故現場に派遣された原子力安全委員会委員長代理に促される形で作業が始まったという。中性子線が発生し続ける死と隣り合わせの現場に積極的に行きたい、行かせたいとは会社も社員も思わないだろうし、手をこまねいてた部分もあるだろう。

あわよくば自分たち以外の誰かにやってほしい、という他力本願な部分もあったのでは、とも思える。
しかし、施設内部について熟知しているのは、そこで働いてきた社員なのだ。今考えても、結局は彼らが現場に向かうしかなかったのだろう。

最終的には事故翌日の日も昇らない10月1日2時35分から、選抜されたJCO社員18人が2人1組で現場に向かい、1組あたり1分を限度時間として、臨界状態終息に向けた作業を開始する。
作業の難しさ、短い制限時間という制約はあったものの、作業開始から約4時間後の6時30分頃、臨界状態を収束させることに成功した。しかし、この臨界状態収束成功と引き換えに作業員7人がこの作業の結果、年間許容線量を越える計画被曝をすることになってしまった。

3人の被爆者

臨界事故発生後の9月30日11時15分、JCOは科学技術庁(現在は文部科学省、内閣府、資源エネルギー庁などに継承)に臨界事故が発生した可能性がある旨を通報。

3人の被爆者は、救急車で国立水戸病院ヘ搬送される。現場に到着した救急隊は臨界事故が起こったことを知らず、急性被曝の可能性に至らなかったためだ。その後、ヘリコプターで放射線医学総合研究所に救急搬送、治療内容の関係でA氏、B氏は東京大学医学部附属病院に転院する。

3人は各々治療を受けることになったのだが、その運命は…。

A氏の容体とその後

A氏(当時35歳)は至近距離で被曝し、3人の中で最も多量の中性子線を浴びていた。その値は推定16~20シーベルト以上。

1度に浴びた放射線量が7シーベルトを超えると100%死亡するとも言われている。
A氏が浴びたのはその2倍以上の放射線量だった。
搬送当初のA氏に見た目上の著しい変化は見られず、一見するとどこかが非常に悪いようには見えなかったそうだが、彼の容体は医者たちの理解を超越して悪化していく。

多量の中性子線を浴びたことにより、A氏の体内では染色体が破壊され、新しい細胞を生み出すことができない状態となっていた。親族から造血幹細胞を提供されて移植手術を実施し、術後すぐは白血球の増加などが確認できたものの、時間が経つにつれ移植後の新しい細胞の染色体にも異常が見つかり、白血球は再び減少に転じてしまった。
それでも被曝から4日目頃までは会話も可能な状態だった。

医者たちも手探りの中で行っていた治療、そして度重なる何種類もの検査を受ける中で、A氏は周囲にこう漏らしたそうだ。
「(自身の様子が)モルモットみたい」
直接にA氏の口から聞いたわけではないので、正確なニュアンスはわからないが、この発言はなかなか改善しない自身の容態への苛立ちや、回復させることができない医療従事者への嫌味というよりは、自身の命の灯への諦観のようなものがあったのではないかと筆者は思っている。

この直後にA氏は人工呼吸管理が必要な状態となり、意識を失ってしまう。

放射線障害によって皮膚がボロボロと剥がれ落ちていってしまったため、体の表面からは体液や血液が滲み出て失われていき、大量の下痢の症状も見られた。

少しでも衰弱を防ぐため1日に何度も輸血が行われる。
皮膚から体液が染み出すのを押さえるために体中にガーゼが貼り付けられ、ベッドとの摩擦によって皮膚が剥がれ落ちるのを防ぐために手足を天井から吊るし、できる限り皮膚が宙に浮くように固定されていた。

治療中のA氏の写真はインターネット上で閲覧可能なのだが(かなりショッキングな写真なので閲覧する際には覚悟をもって、かつ自己責任でお願いしたい)、この頃には、事故前のA氏の面影は消え去っている。髪の毛は抜け落ち、皮膚は赤黒くただれ、衰弱した体はか細くなってしまっていた。

被曝から59日後の11月27日には心停止。

心臓マッサージを施されて蘇生したものの、1時間に渡って心肺停止したため、脳や様々な臓器の機能が低下したため敗血症を引き起こしてしまう。
最終的には施す治療がなくなってしまい、被曝から83日後の12月21日23時21分、A氏は放射線障害による多臓器不全で死亡した。

日本で初めての被曝事故による死者だった。

B氏の容体とその後

B氏(当時39歳)もA氏同様、至近距離で多量の中性子線を浴びた。
その値は推定6~10シーベルト以上、とA氏よりその値は少なかったものの、彼同様、死亡ラインに至るほどの放射線を浴びていた。

B氏も多量の中性子線を浴びたことにより、染色体が破壊されたため造血幹細胞移植手術を受ける。術後は容体が回復し、警察らの事情聴取にも対応できていたようだ。
現在、このJCO臨界事故の詳細がわかっているのも、彼の証言があったことによる側面が大きいだろう。

しかし容態はゆるやかに悪化していく。
移植手術の甲斐なく、皮膚の再生能力は再び失われ、A氏同様、皮膚が剥がれ落ちて体の表面から体液などが染み出すようになってしまう。
加えて院内でMRSAに感染し、肺炎を起こしてしまう。

結局B氏も必死かつ長期にわたる治療むなしく、被曝から211日後の2000年4月27日7時25分、放射線障害による多臓器不全により死亡した。

一部には、助かる見込みもないA・B両氏の延命治療は放射線被曝による容態変化のデータをとるためだったのではという辛辣な意見もある。手の施しようがない両氏の状態を前にしても、医療者たちは必死に治療の可能性を模索し続けたのだ結果ではないだろうか。

C氏の容体とその後

臨界事故発生時、壁を隔てた隣室にいたC氏(当時54歳)は、A、B氏よりは値の少ない推定1~4.5シーベルトの被曝だったとみられている。少ないとは言っても、死と隣り合わせの被曝量であることに変わりはない。

C氏は放射線医学総合研究所にて治療を受けることになったのが、先の2人同様、一時は体内の白血球数がゼロになるという危険な状態に陥っている。しかしその後、骨髄治療などを受けて状態が持ち直し、事故から約3カ月後の12月20日には退院できることになった。

至近距離で被曝した3人の中で、C氏は唯一の生存者なのだ。

JCO臨界事故の事故原因とは

当時は「想定外」とも言われた事故はなぜ起こったのか。
その直接原因はJCOの杜撰としか言いようのない改悪された作業手順にあり、起こるべくして起きた事故であった。

臨界事故の直接原因

本来の高濃縮ウラン製造工程には、臨界事故を防止し安全に作業を行うため、国に認可を受けたマニュアルが存在していた。しかし、JCOは作業の効率化を図るために「裏マニュアル」を作成し、この裏マニュアルを元に作業を行うことが常態化していた。
臨界事故を起こした当日、高速増殖炉の実験炉「常陽」で使われる高濃縮ウランを製造する工程では、この裏マニュアルをさらに簡略化させた上で作業を行っていたのだ。

正規マニュアルでは、臨界を引き起こしにくい溶解塔という装置を使ってウラン化合物粉末を液状にすべきところ、裏マニュアルによれば溶解塔に代わって、あろうことかただのステンレスのバケツを使って液状化する作業を行っていた。

そして臨界発生時、正規マニュアルで規定されている臨界を引き起こしにくい形状に設計されている貯塔という容器ではなく、臨界に至りやすい形状の容器である沈殿槽にステンレスのバケツから大きめのビーカーと漏斗を使って、多量のウラン溶液を沈殿槽に流し入れていたのだ。

このビーカーと漏斗も器具で固定したり、機械によって操作されていたわけでなく、人間が直にもって注ぎ入れ、直接作業にあたっていたA氏、B氏はこの作業方法の危険性についてよく理解していなかったようだ。

正規マニュアル内では考えられていた安全対策を完全に無視したこれらの作業により、ウラン溶液は臨界に達してしまい、2人の死者と多数の被爆者を生み出す惨事となってしまった。

事故原因はそれだけなのか

事故の直接的は原因は安全を軽視し、作業効率を優先して作成された裏マニュアルとその裏マニュアルを元に作業を行ったことことにある。だが、果たしてそれだけで片づけることはできるのだろうか?

このような悲惨な事故に至った遠因として、そもそもこのような杜撰なマニュアルを作るに至った背景があるはずである。

JCO社内の安全軽視体制

これはある種、事故の直接原因にもなるが、原子力関連事業を生業とするJCOの社内体制だ。事故発生時に実際に作業に当たっていたA氏とB氏は今回の作業を行うのが初めてだったそうだ。

初めての作業であったにも関わらず、A氏とB氏に対しこれから行う作業がどのような危険性を伴うのかといった安全教育は施されてはいない。教育はなされていないにも関わらず、裏マニュアルをさらに改変した事故当日の作業工程は、A・B・C氏3人で相談して決めたという。

そもそも国に認可を受けていない裏マニュアルを作り出し、これから扱うものの危険性を理解していいない社員が作業工程を決め、それをおかしなこととだと止める者もいない。この3人だけが異質だったわけではなく、会社全体がこのような異常な状況を是としていたのだろう。

JCOは明らかに原子力に対する安全を軽視していたのだ。

日本全体の原子力の安全性に対する盲信と無関心

原子力に対する安全を軽視する姿勢はJCOという一企業だけでなく、日本全体にも風潮という形で存在していたのではないだろうか?

そもそもこの臨界事故が起こるまで、万が一、放射能が漏れるような原子力事故が起きた際に関係者や付近にいる住民などの人命や財産を守るための法律はなかった。JCO臨界事故発生時には、本来であれば自然災害などを前提とした災害派遣要請をもって、陸上自衛隊が現場に派遣されている。

原子力事故・災害が起こった際に国民の生命、身体、財産を守るための法である原子力災害対策特別措置法はJCO臨界事故を受けて、事故後に制定されたものだ。
本来、日本は2度の原爆投下を受け、原子力や放射能といったものの恐ろしさを身をもって知っていたはずである。

原子力の使用目的が平和利用というだけでその恐ろしさを忘れ、安全神話にまで昇華させてしまった国の責任は重いのではないだろうか。

最後に

日本で初めての原子力事故による被曝死亡者を出すことになってしまったJCO臨界事故。
被爆者を生み出したのみならず、臨界状態にどのように対処するのか、長く続く被爆者への健康補償をどうするのか、国内外からの風評被害にどう対応するのか、様々な問題を私たちの突きつけた事故だった。

私たちはこのJCO臨界事故を真剣に捉え、対応し、検証できたのであろうか?
この後に続く東日本大震災に伴い発生した福島第一原子力発電所事故に対して、JCO臨界事故の教訓は果たして生きたのだろうか?

原子力と共に生きる限り、私たちは放射能漏れ事故と無縁でいられない。
このJCO臨界事故を決して忘れてはいけないのだ。

科学的知識はありませんので、事故に至った杜撰な体制の愚かさと被爆の恐怖にフォーカスしました。

参考文献
原子力基本用語集

※画像はイメージです。

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