「自衛隊指揮官」を読んだ。

指揮官とは、ある“グループ”を動かす意思決定をする人。
自衛隊の指揮官は、部下の命を預かっている。

その意味では、とても特殊。
そんな書き出しで始まる本書の著者は毎日新聞社の現役記者であり、しかし、防衛大を卒業後一年の浪人を経てその職に就いたという異色の人でした。そんな彼が防衛記者会に所属し、自衛隊を取材するようになって考えた様々なこと、そして出会った人々について考察し始めたことから、本書が生まれたのです。

訓練しかしたことのない指揮官が重大な危機に遭遇した時、どうしたかを知りたかった、とあります。
実際にあった、自衛隊組織の存亡を賭けたともいうべき、5つの事件。その現場を指揮した者たちは淡々と当時のことを語り、その最後に“反省”を口にしたのだと言います。

時代は、まだ東日本大震災が起こる前のこと。
同時多発テロなどが起こったこの時期に書かれた本としては、レアな切り口の一冊でした。

地下鉄サリン事件

毒ガス防護 地下鉄サリン事件(1995年3月20日)
まだ防衛“庁”であった時代、古い六本木の桧町庁舎で瀧野氏が目にしたのは、防衛大で同期、そして同室だった中村三佐がインタビューを受けているテレビの映像でした。その再現映像の中で、未曽有のテロ事件の現場で除染作業を指揮した後に彼はその安全を自らの体で確かめるべく、実験台としてマスクを外し、空気を吸ったのです。

そんな彼の学生時代は、周囲をほんわかさせる穏やかで、大らかな人だったのだとか。
特筆すべきはその数学的才能。
そして「化学式ってきれいだと思わないか?」と言うセンスの持ち主だったのです。

死者12名、重軽傷者5500名という未曽有の事件の中で、彼は命を懸けていた、その事実に感動し、“痺れる感じ”を受けた著者はインタビューを試みました。
旧知の仲の気安さで酒でも誘おうか、と思ったとき、しかしその関係性は記者と公務員である、ということから、“取材の形”をとった、といいます。

中村三佐にとってのサリン事件は、実は三日前から始まっていました。
大宮の陸上自衛隊化学学校に勤務していた彼は理由は告げられず、本来なら休日の土曜日に呼び出されました。
朝霞駐屯地で神経剤に焦点を当てた教育を行うことになった、というのです。

その教育の目的、対象者は明かされないままでしたが、実はそれがサリンを手にしたオウム真理教の暴走を予想した警察と陸上自衛隊の連携であった、と言うのです。

その教育を終えたのが19日の夕方。しかし、翌月曜日の朝、自衛隊の大規模な定期異動の真っ最中で、春分の日の前日という穏やかなはずの化学学校に衝撃が走りました。

「あぁ、やられた」

オウムによる先制攻撃、地下鉄サリン事件の勃発です。

非常呼集がかかり、本来は化学職種としてアドバイザー的な立場になるはずの中村三佐は、「現場の指揮はその場で最高階級の者が執れ」という連隊長の訓示から、普通科のチームを率いることになったのです。

「あ、俺、現場指揮官になったんだな」と中村三佐は実感し、そこに連隊長の配慮を感じた、といいます。

それは画期的なことでした。しかし、連隊長は化学の専門家に指揮権を委ねながらも頼んだのです。

「隊員たちは、あんたらの言うことを確実にやります。きちっとやらせます。ただ、お願いだ。隊員を殺さないでくれ」

死者を出さないこと、それは指揮官としての最大の命題です。
連隊長が慣例にとらわれることなく化学職種の中村三佐らを指揮官に据え、その運用において、念を押す意味で「殺さないで」と言葉を添えたのでしょう。

日本では、旧陸軍の化学兵器の研究で忌まわしい歴史があったことから、そうした分野への風当たりが非常に強いものでしたが、基礎研究から現場を想定したシミュレーションは長い間実践されていたのです。

解毒剤や除染など、あらゆるプロセスを実験でデータ化し、装備の安全性は実証済み。
彼らは満を持して築地の現場へと足を踏み入れたのです。

移動中に確認した手順で除染用の水酸化ナトリウムを水に溶かす手順から周囲の隊員に指示を出し、防護服を着用、そして地下鉄築地駅の構内へ。

現場の床にあったのは、雨の日に現れるようなシミ・・・「これだ、これがサリンだ」。
みつけたら、そこから先はプロシージャー(作業手順)どおり。

検知~作業見積もり~除染~水洗~除染後の検知

チームは、指揮官の中村三佐、化学防護隊員3名、防護服を着用した警視庁の警察官3名、計7名で20分ほどの作業となり、午後6時までにその作業は終了。しかし、問題は最後の「除染後の検知」でした。

いつから駅は使えるのか、という駅員の質問に窮した中村三佐は、誰かが実際にそこに行って自らの体で安全性を確認する、という命がけの行動を「じゃあ、私がやります」と引き受けたのです。

それは“命を懸けた深呼吸”です。

もう一人の防護服着用者に同行してもらい、いざとなったら運んでくれるように、と頼んで自らマスクを外し、呼吸と、その変化を自らの体で試して安全性を確かめた、まさに人体実験でした。そんな話をした取材のなかで、「蛮勇をふるうな」という言葉が出ました。

指揮官なんだから、蛮勇をふるうな、というのです。
次の任務がある。そして兵隊に代わりはいても、指揮官は替えが利かないのだ、と。
しかし、中村三佐は研究者として“見たい”という気持ちも確かにあった、と言うのです。

地下鉄サリン事件の喧騒の後、しかし、中村三佐は続く上九一色村のオウム真理教一斉捜査が終わるまでの間、化学兵器のエキスパートとして、そしてサリンを目にしたほぼ唯一の研究者として忙殺されることになります。

彼が現場で行った検知は、指揮官として正しかったのか、否か。
多くの自衛官にその質問をぶつけた著者でしたが、当時はそこから確固たる答えが導き出されることはありませんでした。

この中村三佐はその後も様々な取材を受けて当時の様子がどんなであったかなどを実証的に語るリポートを残しています。

海のスクランブル

海のスクランブル 不審船事件(1999年3月22日)
それは、海上自衛隊の史上初の海上警備行動でした。

荒れた舞鶴の海を出港したヘリ搭載艦「はるな」、イージス艦「みょうこう」、護衛艦「あぶくま」は翌日能登半島沖で不審な船影を追うことになったのです。
第三護衛隊群司令の吉川は、当時「はるな」に乗艦していました。

その対象の船は、一隻がすでに船籍を抹消されたはずの幻の船、そしてもう一隻は同名の漁船が他の海域で操業中という偽の船と判明しました。
これらの不審船追跡オペレーションは防衛庁(当時)の長官執務室を中枢とし、上空からヘリや哨戒機を使って監視を続けながらもその異常行動に備えて海上警備行動の準備を始めるに至ったのです。

発動するか、しないか。

その判断がせめぎあうなかで海上保安庁の停船命令を無視した不審船は速度を上げて北上。
23日午後8時、海上保安庁の巡視艇「ちくぜん」と「はまゆき」、そして「なおづき」が機銃で威嚇射撃を行うも、速度を上げ、巡視艇を振り切る行為に及びました。この時点で海上自衛隊VS不審船のミッションが始まったのです。

首相官邸、そして防衛省をつなぎ、政治的・外交的な様々な判断を加味しつつ、海上警備行動が開始されたのでした。

航空自衛隊の場合にはシンプルです。

「国籍不明機来る → スクランブル」

しかし、海上自衛隊の場合にはそうした反射回路になっていませんでした。

「領海侵犯 → さてどうしよう」

そうした心理的作用と、政治的判断、複雑に絡み合いながらもミッションを遂行せねばならない、上には上の、そして現場には現場の、それぞれの苦労がしのばれます。

自衛隊にはROEと呼ばれるものがあります。Rules of Engagement、すなわち、交戦規定です。

具体的な行動内容、回りくどく「『これをしろ』ではなく、『これだけはするな』」という指示命令書であり、これが発動されるということは、その現場が戦場に近い状態にある証拠なのです。

ここに、文民統制(シビリアンコントロール)が大きな役目を果たします。
彼らはただ「やめろ」と命じるのではなく、「やるときは、これだけは守れ」と現場に対して手綱を引く役割を担っているのです。

その時のROEでは、「放水」や「警告射撃」は認め、直接狙う射撃だけが禁止されたのだろう、と著者は述べています。

こうして「海上自衛隊史上初」の「海上警備行動」が発令されました。不審船に対して護衛艦による威嚇射撃と哨戒機P-3Cからの爆薬投下をしたものの、なお停戦しない相手に対して、現場指揮官は立ち入り検査の可能性を考え始めたのです。

不審船に乗り込んで、相手に事情を聴かなければならない…しかし、反撃される可能性も大きく、この出向に際して防弾チョッキを積んでいなかった、という懸念もありました。

相手は、臨検を諾として受け入れるような連中ではないことは、だれしも想像可能な状況です。
これまでに訓練を重ねてきてはいても、想定する相手は国際常識にのっとった商船を想定するレベルのものであって、ゲリラを相手にできるレベルではないのです。しかし「危険だから(立ち入り検査)やりません」とは、現場指揮官は言えないのです。

そうこうするうちに、24日早朝、数度の警告射撃を繰り返したうえで、二隻の不審船は防空識別圏を超えたため、追跡を終了、海上警備行動は終わりを告げました。

舞鶴に寄港後、吉川はヘリで飛んできた海幕幹部に対して「ミッションを全うできず、申しわけない」と頭を下げました。
はた目から見たら、粛々と警告射撃を行い、よくやったではないか、決められた範囲で十分なことをやったのではないか、と著者は考えていましたが、指揮官・吉川の胸にあったのは悔しさ、そして忸怩たる思いであったようです。

客観的にみれば、あれ以上のことはできるわけがない。
しかし、それでも「取り逃がした」という結果一点において、彼は責任を感じていたのです。

この後、不審船が姿を見せるのは、2001年の年末、鹿児島県奄美大島沖の東シナ海でした。
後に九州南西海域工作船事件と言われるこの時は、停船命令を無視された海上保安庁の巡視船が不審船に向けて機関砲を発射、ロケット砲などで応戦されて海上保安官が負傷した後に不審船が爆発、沈没。

現在引き揚げられたその船体は海上保安庁の横浜海上防災基地に展示されています。

亡命機飛来

亡命機飛来 ミグ25事件(1976年9月6日)
ミグ25事件とは、本質的には航空自衛隊にショックを与えた事件として知られています。

仮想敵国ソ連の最新鋭戦闘機に、20年かけて構築してきた日本の防空体制がいとも簡単に突破されてしまったのです。
そしてまた、当時、函館空港から空路百里基地へと移送した際には、そのエスコート機の操縦士に下された命令は「ソ連機が接近し、不審な動きをしたら撃ち落としてよい」という撃墜命令も下っていたのだという、当時の緊迫した空気が漏れ伝わってくるエピソードです。

しかし、当時、その函館空港に近い陸上自衛隊第28普通科連隊長 兼 函館駐屯地司令であった高橋は、直面したその事態、ミグの飛来から米軍輸送機によって搬送され、函館を去るまでの間に起った様々なことを記録していたのです。

突然起こった珍事ともいうべき事件に際し、政府の中枢で事態の収拾を図っていた“最高指揮官”らとは違った意味で奔走した現場指揮官の思いが、そこに詰まっていました。

その日、飛来したミグがオーバーランして函館空港に着陸し、亡命を求めたとき。
本来はその国の“軍隊”が出動するケースでしたが。
この時にはその場の管轄は警察によって抑えられており、厳戒態勢をしかれてしまったために自衛隊は一切手出しができない状態だった、というのです。その状況をテレビのニュースで知るしかなかったのです。

残念ながら、当時の自衛隊は蚊帳の外に置かれ、当日の6日、そして翌7日はほとんど何もできないままに時間が過ぎたのです。

しかし、8日になって、驚愕の情報が陸上幕僚監部にもたらされたのです。
情報源はスイスの米国大使館付き武官。
いわく「ソ連が武力をもってミグ25を奪還しにやってくる」

その最前線にあったのが、高橋が預かる第28普通科連隊だったのです。
下された命令は「第三種非常勤務体制」。
不測の事態にそなえて、全員が営内で待機するという最も緊張した態勢でした。
そこに陸幕の幹部から電話が入ったのです。

「連隊長、陸幕長はこう言っておられる。進行してきた敵は、これを直ちに撃滅せよ、である。貴君を信頼している」

その指示に、全員が相当緊張して戦闘準備を開始、三個小隊による一個中隊を編成し、粛然と備えていたのだそうです。

果たして、本当にそんな無謀なことをソ連が起こすのだろうか、という疑問はもちろんでしたが、幾条自衛隊の中枢幹部たちが恐れた事態は、その二か月前のエンテベ空港事件を思い出してのことだったのです。

ギリシャ上空でパレスチナゲリラに乗っ取られたエールフランス機がウガンダの首都カンパラ郊外のエンテベ空港に着陸、ウガンダの政治家らは仲介に乗り出したものの、イスラエルは特殊部隊を派遣して犯人を射殺し、同国の乗客・乗員ら105名を救出、しかし、その銃撃戦で現地ウガンダの将兵には多くの犠牲者が出た、と言う事実が残りました。

このように、相手国に何の通告もなく勝手に乗り込んできて武力を行使する、この無茶苦茶な国際法違反は、しかし“軍人”の目から見れば「国の威信」をかけた行為である場合、指揮官がその気になれば何でもやる、というのが、ある意味“国際社会”の現実なのです。

思えば、今のようにネットのない時代の話です。
ある程度の情報が瞬時に調べられるような状況もなく、疑心暗鬼と緊迫感にさいなまれるそれは“有事”そのものだったはずです。

さらに事態を悪化させる事件もありました。
レーダーに識別不明の三目標が現れて、函館を目指している、という報告が高橋のもとにもたらされたのです。まさに、陸上自衛隊の部隊が“敵”に向かって出動する寸前、あっけなくそれは幕切れを迎えました。

三機の機影は、コンピューターのバグであった・・・というのです。

もし、その最後の確認をせずに出動していたら、函館空港とミグ25の周囲は大騒ぎになっていたはずです。
彼らはフル装備で実弾までも準備していたのですから。

「情報を知る人の決死行動」、そして「情報を知らない人の呑気(のんき)」
軍人と、そうでない者たちの間にはおそらくは解りあえないだろう深い溝があるのです。

この時期、新聞にはこのような事態についての記述はほとんどなく。
そして陸上自衛隊の中にも正式な記録としては多くのことが残されておらず。
高橋の個人的な記録としてのみ存在しています。

昭和63年に記されたそれは、陸自の“正史”には組み込まれた様子がありません。

ミグ25は解体されたのち、9月24日に米軍のC-5A大型輸送機(ギャラクシー)に積み込まれ、百里基地に輸送されました。
そうして「緊迫の19日間」は終わりを告げたのです。

領空侵犯を許すな

領空侵犯を許すな 12.9警告射撃事件

航空自衛隊が防衛記者会の所属記者にF15の体験搭乗をさせる、というチャンス。
しかし、それには「航空生理訓練終了証」という証明書が必要になるのです。

防衛大の4年間を経て、そういう世界に憧れを残していた著者は三島由紀夫がかつてF104に搭乗した時の体験をまとめた随筆の表現に痺れ、彼が表したその“絶頂感”を味わってみたい、という思いから、その低圧訓練に挑んだのです___が、低圧・低酸素状態を体験するその訓練中にリタイア。

適正ではじかれてしまった、という経験がありました。
そんな彼にとっては“戦闘機パイロット”という職種は「人種が違う」と率直に感じるというのです。

そんな彼らが直面した事態、それは“警告射撃”です。
自衛隊が創設されて以来、この当時、自衛隊の歴史の中で、このただ一度しか行われていない、そのことの重み。

F4ファントムの操縦士・正岡は唯一のその証人です。
カムラン湾から北上したそれは、いわゆる「定期便」のソ連機(偵察機バジャー)でした。

“いつものやつ”という感覚でスクランブルに上がったら、通常通りの回避行動をせず、日本の領空に向けてまっすぐに飛び続けていた、というのです。

スクランブル発信した戦闘機は、接近~機種の確認~写真撮影~「領空侵犯の恐れ」があることの通告~無線による警告~機体信号による警告~警告射撃の手順をふみ、その後にようやく「撃墜」という項目があるのですが、空自が想定しているのは、実質「警告射撃」まで。

その日、対象のバジャーは4機。
3機は通常通り、警告に従って針路をそらしましたが、一機だけが“曲がらない”。国防の見地から絶対に譲れない一点、領空侵犯させないための措置を繰り返してみたものの、まったく反応を見せない機体だったのです。

正岡は言います。

「それぐらいになったら爆弾倉とか、機銃とかに、気を付けています」

国土への爆撃や、自分たちへの機銃掃射・・・それはまさに国防の最前線を飛ぶ者にしかわからない感覚でしょう。
普通なら、こちらの警告に対して様々な反応が見られるはずのところ、その一機にはまったくそうした部分が見えなかった、というのです。

相手が領空侵犯しないよう通告を繰り返したものの、無反応。
そして意図的にやっているのだとしたら、それを変えさせたかった、というのです。
警告射撃は、この要撃機からのオファーでした。
許可が下りたのは領空に入る寸前。

その時、雲の切れ間から米軍が使用している嘉手納基地が見えた、と言います。
彼らは那覇基地、普天間基地、嘉手納基地、キャンプシュワブ、キャンプハンセンの上空を鳥瞰するように飛んでいたのです。

要撃機は領空侵犯を犯した国籍不明機を洋上で警告射撃しました。
曳光弾を含めて、オレンジ色の炎を曳きながらその弾道は空に消えていくのです。

しかし、針路は変わりません。
はたして、二度目の警告射撃。
その機体が領空の外に出るまで、7分間。

“初めて”の警告射撃はそうして幕を閉じたのです。

実際、そうした場面に直面したら、どうする?

そんな議論を交わす戦闘機パイロットの意見もさまざまです。
国会でも「なぜ撃墜しなかったのか?」と言う声が上がりながらも、現在に至るまで法律は変わっていません。

戦闘機パイロットという人種は、身をさらしてその国防の最前線に立つのです。
彼らと話していると、最後は決まって、国とは何か、若者論とか、教育談議に行きついてしまうのだ、と著者は言います。

そして最後は「ニッポンってなんだろう」と。

20代の頃からスクランブルを繰り返し、普通の人たちが目にすることのない生々しい形で“敵”に接してきている彼らは、その航空自衛隊と言うピラミッドの中の頂点に在り、国を背負う、という自負心、自尊心を持って生きているのです。

海外派遣の重さ

海外派遣の重さ 同時多発テロ 2001年9月11日。

世界貿易センタービルの崩壊が世界にもたらした大きな衝撃。

人々はそこに何かの「終わり」を感じるのか、それとも別の歴史の「始まり」を思うのか。

そこには、軍人にしか見えていない何かがある、と言います。

非軍事の人たち、つまり戦後の日本人のほとんどは、今自分たちの住むこの世界がずっと続くことを前提において物事を考えているのでは会社の状況とか、病気とか受験とか、そんな近未来の不安はあるものの、それなりに安定した社会が維持されて、なんとなくこのまま、何となく安全に、平和な時間が続くだろう、と何の検証もないままに都合よく考えている、と。

しかし。

軍事の世界で生きている人々には違うものが見えていて、世界的な危機的状況が進行している時に、呑気に街中を歩いている人々を見て苛立ちを感じる、そんなこともあるのだというのです。しかし、彼らはリアルにさまざまな情報を分析し、確からしさを検討し、それが間違っていた時の危険性をチェックし、結論を見出していく…自衛隊指揮官と言う人々はまず「究極のリアリスト」と呼びたい、と述べています。

93年、94年、水面下で様々な実働のための準備が進んでいました。
そんな中で警察と陸上自衛隊の幹部が会食する席が設けられた、といいます。

もし、某国のゲリラが北陸地方の原子力発電所を襲撃したら・・・という想定で話を始めたところ、発生直後の初期対応は警察が行うとしても、太刀打ちできない場合は自衛隊側に出てもらえるのでしょうか、という質問が警察側から出たときに、陸自側からは逆に質問が返されました。

「防衛出動が出ているという前提ですか?」
「それくらいで防衛出動はできませんよ、今の日本では」
「じゃあ治安出動ですか」
「まぁ、そうでしょうね」
「治安出動ならうちは出ません。出ないし、出せません」

たとえ外部からの武力攻撃を受け、その対処をする場合であっても、国会の承認、そして総理大臣からの下命を経なければ何もできないのが自衛隊の現実です。

しかし、何もできない、というだけで立ち止まらないのがリアリストたちでした。

警察と自衛隊の幹部らは、政治が何もしない分、実務者が動き始め、その両組織の垣根を取り払って実際的な運用を行うための会議を始め、連携を始めたのです。
今では当たり前のことが、当時はどれほど難しいことであったか。その会議が全て極秘で行われていた、そんな時代もあったのです。

阪神大震災、地下鉄サリン事件を経て、自衛隊の存在に対する意識や法律が少しずつ変わってきました。
そしてPKOを通して日本以外の場所にも自衛隊が出ていく時代になり、自衛隊を目指す若者らの意識も、国防よりも「人助け」という人が増えている、というのです。

以前の仮想敵国は北の脅威・ソ連であったのが、今では北朝鮮や、可能性としては中国へと変化しており、国情が変わったロシアとは海上自衛隊が共同演習を行う時代です。

長い間、自衛隊が海外で活躍する時代が来るとは夢想だにもしていませんでした。
今やそれは当たり前のこととして特別なニュースになるわけでもなく、そして国際貢献の一つの形として認識されています。
しかしそれは諸刃の剣であり、支援を必要にしている地域は政情が不安定だったりして、常になにがしかの問題を含み、そこに派遣される側も相当の緊張を強いられているのです。

そして、もしかしたら海外で自衛官が“戦死”する・・・その可能性も否定できません。

92年に陸上自衛隊が国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に派遣された時。
政府は「安全な場所に派遣する」とか「危険な事態になったら撤収する」とどれほど主張したとしても、リアリストの指揮官らには笑止千万な事態であったのです。

可能性の見積もりがゼロでない場合、もしもの事態に遭遇した指揮官らはその場で対処を迫られます。
もしも、不幸なことが起こった場合にそなえて棺桶や遺体収納袋を調達しようとした予算担当者は、即刻却下されてしまいました。

自衛官ではない非リアリストらにしてみれば、そのこと自体が“政治的”な意味を持ってしまうからです。

「派遣先は安全である(べき)」

その結論ありきで、さまざまな問題がおざなりにされてきて、それは棺桶や遺体収納袋だけにとどまらず…武器等の使用規定にも同様の混乱があったのです。

9.11以来、世界は変わり続けています。
「軍人には私たちに見えないものが見えている」…正しくは「日本人は見たくないものを見ない傾向にあるが、日本の自衛隊員は、見たくないものでも見ようとする」のです。

これからテロリズムと対峙していかなければならない自衛隊指揮官らの任務は、想像を超えた過酷なものとなるでしょう。
従来の任務にはなかった局面がたくさん出てくるはずです。

そうした「想定外」のことを乗り越えなければならない、そんな事態において、指揮官個人に責任を押し付けるようなことがあってはならない、と著者は述べているのです。

見どころ

刊行から17年の月日が流れ、しかし、自衛隊を取り巻く情勢は今に至るまで変化を続けています。
この本が書かれたのちに東日本大震災が発生し、国内外での自衛隊に対する認識と評価は大きく変わりました。

しかし、流れ去るうちに忘れられがちな過去の状況を知る、と言うのはとても大切なことだと改めて感じます。

過去、自衛隊の置かれた状況はこれほどに不自由なものであったのか、と。
戦後の、自衛隊“黎明期”は思いのほか長く、そして苦難の日々だったことが良く解ります。
インターネットが発達し、瞬時にある程度の情報が得られる時代からみると、ミグ25事件の時代の大変さは想像もできないほどです。

人を介してしか知る術のない国際情勢の情報、そして状況の変化など。
媒体の少ない時代にどれほどの苦労があったことか。
過去を顧みるとき、さまざまなことがしのばれるのです。

平成が終わり時代が変化している今、自衛隊は海外でも一名の“戦死者”を出すこともなく、粛々と任務を遂行し。
また、東日本大震災での大きな貢献により、国内外からの評価はずいぶんと好転したと考えられます。

その裏には、現場でその瞬間に出来うる最大限の活動を行ってきた指揮官らの貢献、そして苦悩がありました。
法律に縛られ、部下の命を預かり、直面する危機的な状況から逃げずに進むしかない彼らのその能力と、そして懸命に行ってきた数々のミッションの結果、そして成果。
のど元を過ぎると忘れられてしまうことばかりで、一般の(非軍事な)人々にとっては興味関心が薄いという場合もあるでしょう。しかし、本来の“国防”を担う自衛官らには違う次元のものが見えているのです。

過去を知ることで、これからの未来を考える。一時でも自衛官を目指し、防衛大で学んだ著者だからこそ書ける、そんな一冊でした。

(C) 自衛隊指揮官 瀧野隆浩 講談社

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