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駆逐艦「天霧」による「魚雷艇PT109号」粉砕。実はあれは事故だった。

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その時「天霧」の艦橋で起きていた、意外なある出来事とは?

昭和18年8月2日未明、ソロモン諸島のコロンバンガラ島沖で、日本の駆逐艦「天霧」がアメリカ海軍の魚雷艇PT109号に体当たりし、これを粉砕して撃沈したと言う話はあまりにも有名である。ただしこの事実が大きくクローズアップされるようになったのは、撃沈されたPT109の艇長だったジョン・F・ケネディー中尉が、のちにアメリカ合衆国の大統領になってからの事だった。

故・ケネディー大統領が乗っていた魚雷艇が日本駆逐艦に体当たりされて寸断され、それにもかかわらず乗員12名の内10名が漂流の末に奇跡的に生還したと言う、大統領の武勇伝の意味もあるのだろう。
日本側でも、この件については駆逐艦「天霧」が、接近して来たPT109に対して、あまりにも近距離のため射撃の余裕がないと判断してこれに突進、体当たりして粉砕したと、のちの戦記で語られることが多い。

作者のページを見る [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

だがこの時「天霧」の艦橋に居た元第11駆逐隊司令の山代勝守氏(大佐)は、戦後になってあれは体当たりによる撃沈ではなく、艦内での一瞬の命令誤認による事故だったと証言している。そして、「天霧」は衝突する瞬間まで魚雷艇を回避しようとしていたと言うのである。
以下、山代氏の証言の要点である。

昭和18年7月31日「天霧」はコロンバンガラ島への増援部隊を輸送する駆逐艦3隻(萩風・嵐・時雨)の護衛としてラバウルを出撃。無事陸揚げが終わり、8月1日の深夜から翌2日の未明にかけて、輸送隊の背後を警戒しつつ30ノットの高速でラバウルへの帰路についていた。

天霧は第11駆逐隊に所属していたが、他の艦が沈没・損傷修理中のため、戦隊は天霧1隻だけとなり、戦隊司令の山代大佐が「天霧」に座乗していた。海軍の決まりでは、駆逐艦に戦隊司令が座乗している時は、艦長は司令の命令で動くことになっている。即ち実質的には艦長の仕事は司令が行なうのである。ただし命令は全部、司令・艦長・担当部署の順に送られて行くので、艦長が宙に浮くと言う訳では無かった。
ところが今回はそれが災いしたと元司令の山代氏は証言している。

■太平洋戦争開戦前の天霧
USN [Public domain], via Wikimedia Commons

2日午前零時過ぎ、左舷双眼鏡見張り員が
「黒いもの。左10度、距離10(1000m)」と報告。
見てみると「天霧」の進路を左から右へゆっくり横切ろうとしている舟艇がある。
一瞬大発か機帆船かと思ったが30ノットで走るうちにみるみる接近。
見張り員が「敵魚雷艇!」と叫ぶ。しかしそれにしては動きが鈍いと感じた。
総員戦闘配置を命じたが、山代司令は砲撃するかどうか一瞬迷ったと言う。あまりの近さに砲の動作が間に合わないのである。

そして、このままぶつけてやろうかと思ったが、相手は魚雷艇。積んである魚雷が誘爆する可能性がある。そうなれば相手もろとも「天霧」は轟沈するかもしれない。
この間数秒の判断で、山代司令は取り舵を取って左に転回し、艦首からの衝突は避けて、ぎりぎりでも「天霧」の後部で魚雷艇の後部を跳ね飛ばしてすり抜ける事を考えたと言う。

そしてまさにギリギリのタイミングで、花見弘平艦長に対して「取り舵取れ!」と命じた。
ところが、この時花見艦長は何を思ったか、逆の「おもーかじー」と二回命令し、その直後に誤りに気付いて二回目の命令に続けて、「もどーせー!取り舵いっぱい」と命令を訂正したのである。

Sugarcaddy at en.wikipedia [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

操舵員は最初の「おもーかじー」の命令で「天霧」の舵を右に約10度切ったと言う。
そしてその後の「取り舵いっぱい!」で、今度は全力で舵を左30度限界まで切った。
このため「天霧」は左右に大きく揺れながらしばらく直進、やがてようやく左に転回を始めた。そして、その曲がりっぱなに艦首からまともにPT109と衝突したのである。

衝突の瞬間、鈍い衝撃と共に、「天霧」の右舷側に火柱が立った。火の色からそれが魚雷艇のガソリンに引火したものと分かり、魚雷の爆発が無かったことに胸をなでおろした。

そして後方を見ると、いくつかの火の塊と共に、ちぎれた二つの船体が漂っているのが見えたので、山代司令は、これはもう全員お陀仏だと思ったと言う。

■竣工当初の天霧
Shizuo Fukui [Public domain], via Wikimedia Commons

「天霧」の損傷は、艦首に軽微な亀裂が生じ、スクリューの一枚が僅かに曲がっただけであった。
そのため、「天霧」は速度を28ノットに落として、ラバウルへの航行を続けた。

このように、「天霧」の艦上では命令誤認はあったものの、衝突の瞬間まで懸命にPT109との衝突を回避しようとしていたのである。

さて、PT109の方である。
この時彼らはPT162・169と共に3隻で哨戒に当たっていたが、日本軍機に航跡の白波を発見されないよう、3基あるエンジンを1基だけ動かして低速で行動していた。

Photograph from the Bureau of Ships Collection in the U.S. National Archives. Image # 19-N-33165 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

そのため、天霧が接近してきても急激に加速できず、舵も効かなかったのである。
そして見る見るうちに迫ってくる「天霧」に対してなすすべもなく、のしかかられ踏みつぶされた格好である。

そのあまりにも激しい破壊に、他の2隻は生存者の捜索もせずに遁走。
実際は12名の乗組員の内、ケネディー中尉はじめ10名が近くの無人島にたどり着き、1週間飢えに苦しんだのちに救出されたのだった。

参考文献
佐藤和正 著 「艦長たちの太平洋戦争」より
「命令誤認・山代勝守大佐の証言」

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