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ヨシフ・スターリンの犯罪と、その死

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コン、コン、コン。静まり返った夜明け前にドアをノックする音が響くと、人々は銃殺刑を覚悟した。この音を聞いた者は、黒いカラス(囚人護送車)に乗せられて、二度と戻ることがなかったからだ。泣く子も黙る大粛清時代のソ連では、それが常識だった。
「おや、誰か来たようだ」というネットスラングの元ネタは、おそらくスターリンノックではないだろうか。

「死がすべてを解決する。人間が存在しなければ問題など起こらない」。
何かにおびえ、敵も味方も容赦なく殺していったスターリン。暴虐のかぎりを尽くしてなお、加速する狂気は止まらなかった。

Self, Public domain, via Wikimedia Commons
目次

スターリンの犯罪~ホロドモール~

現在、ロシアの侵攻を受けているウクライナ。じつはこの地は90年前もソ連によって蹂躙し尽くされていた。5人に1人が餓死したとされる大飢饉、ホロドモールである。

原因は凶作ではなく、ソ連政府による穀物・家畜の強制収奪。工業国への転換をめざすソ連は、穀倉地帯のウクライナに農産物を供出させ、それで獲得した外貨で工業化をなしとげた。その結果、ウクライナの街には物乞いがあふれ、路上に死体が転がり、ついには人肉食まで横行するに至る。
ホロドモールの犠牲者数は、推計によると250万人から1500万人。当時はもちろん情報統制がしかれ、飢餓を報道することは許されなかった。報じたメディアの責任者は反ソプロパガンダ罪で強制収容所送りである。

この世紀の大惨事を引き起こした男の名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。誰もが知る「スターリン」という名
は「鋼鉄の人」を意味する筆名だ。
すでに多くの餓死者が出ていたにもかかわらず、スターリンは食糧援助を頑として拒絶、飢餓を「なかったこと」にした。このことが甚大な被害を招いたのは疑いようがないだろう。ホロドモールは「意図的な見殺し」、つまり人災であったのは明らかで、それゆえに「人為的大飢饉」「ウクライナ人の大量殺戮」と呼ぶほうが実態をつかみやすい。

スターリンの犯罪~大粛清~

「愛や友情はすぐ壊れる。恐怖こそ長続きする」。
スターリンの恐怖政治を端的に表す、本人の迷言である。

1940年、レフ(レオン)・トロツキーが亡命先のメキシコで殺害された。スターリンの放った刺客がトロツキーの頭をピッケルで叩き割ったのだ。ソ連建国の父ウラジーミル・レーニンの後継者と目された、最大の邪魔者が消えた。「スターリンを国家指導者にしてはならない」というレーニンの遺言もむなしく、赤い悪魔はソ連邦の全権を掌握する。

スターリンに「NO」と言うことは「死」を意味した。反対派の意見にではなく、その頭蓋骨を直接攻撃するのがスターリン流。自身の権力掌握を脅かす者は、とにもかくにも排除しないと気がすまない。ターゲットは政敵にとどまらず、腹心の側近、赤軍を支える高級将校、さらには司祭、医師、学者、教師、文化人といった一般国民にまで及んだ。作家のマクシム・ゴーリキーも大粛清の犠牲者である。

秘密警察による罪状のでっち上げや強制収容所への連行というやり方は、かの独裁者と同じ。ヒトラーとスターリンの両者を知る通訳者によると、「握手が冷淡」だった点も2人はよく似ていたという。

スターリン体制下で粛清された者は、NKVD(内務人民委員部)の統計資料によると74万5220人。すべての犠牲者を含めると、800万人から1000万人とも試算されている。そして処刑された人物は、最初から存在しなかったかのように写真や教科書から削除された。革命の歴史は、しだいにレーニンとスターリンという2人の主役の英雄談に変貌していく。メディアを通じた国民の洗脳も常態化していた。

dmvlによるPixabayからの画像

グルジア人の出自と身体的コンプレックス

ソ連邦の赤い皇帝として権力をほしいままにしたスターリンだが、じつはロシア人ではない。スターリンは、ロシア人より格下とみなされていた少数民族のグルジア人である。

異常なまでに肥大した権力欲と自己顕示欲は、自身の出自、低身長、左腕の機能障害といった劣等感によるところが大きかった。余談になるが、左腕を柔軟に動かしている映像は影武者の可能性が高いだろう。スターリンの遺体にエンバーミング(遺体衛生保全)を施した男性は、「スターリンは天然痘によるあばたとシミだらけで、一般に知られているプロパガンダの写真とはかなり違い、ショックだった」と述べている。

生来の人間不信に輪をかけて、権力闘争を勝ち抜く過程において、独裁者にありがちな他者への猜疑心もふくらむ一方だった。その性格は、単に独裁者という言葉では片づけることができないほど複雑怪奇である。

晩年、スターリンの妄想はいっそうひどくなり、あらゆる所に裏切り者の姿をみた。忠誠を誓う側近をスパイと決めつけ、部屋を盗聴し、少しでもあやしいと思えば、ただちに処刑する。周囲の人間はすべて敵で、みんなが自分の命を狙っていると思いこむ、典型的なパラノイアの症状といえる。「誰一人信用できない。もはや私自身さえも」とこぼしたこともあった。

スターリン、死す

70代になっても、スターリンは1日15時間以上も執務室にこもっていた。
粛清の恐怖をぬかりなく漂わせながら、あらゆることに首を突っ込み、何でも知りたがり、膨大な報告書に目を通す。新聞記事や歴史書には訂正を入れる。
しかし、これほど敵を殺し尽くし、国民を洗脳してもなお、彼は「自分は暗殺される」という妄想に取りつかれていた。クレムリンの廊下でさえ大勢の護衛をつけて移動する。執務を終える真夜中には、黒塗りの高級車が何台も政府専用道路を走り去る。1台以外はダミーであり、どの車にスターリンが乗っているかは極秘だった。スターリンの食事の皿にふれることができるのは専属の料理人だけで、料理はすべて毒見させ、ワインのボトルは栓をしたまま供された。

1953年2月28日、モスクワ郊外にある秘密の別荘ダーチャに、ニキータ・フルシチョフ、ラヴレンチー・ベリヤら高官が呼びつけられた。夕食のあと、スターリンは寝室に戻り、客人は日付の変わった明け方に辞去する。
寝室は暗殺者の目をくらませるための特別仕様。同じ寝室がいくつもあり、どれを使うかは直前にスターリンが決めていた。ドアは内側から施錠すると、警備責任者が保管する鍵がなければ外からは開けられない。

翌3月1日、陽が高くなってもスターリンは部屋から出てこなかった。誰もがおかしいと思ったが、勝手に入ることは許されない。彼はプライベートの時間を邪魔されると激昂した。部屋には食堂もあるから、たぶん集中して仕事をしているのだろう。

夜になり、ようやく使用人が意を決して部屋に入ると、床に倒れて失禁しているスターリンを発見。脳卒中だった。
そして4日後の3月5日、独裁者は息をひきとった。臨終に立ち会った唯一の親族である一人娘のスヴェトラーナは、評伝『スターリンの娘』でこう記している。
「父は突然、両目をかっと開き、部屋の中にいる全員を見渡した。狂気と怒りが入り混じった、恐るべき一瞥だった」
そして腕を上げて何かの仕草をした。それはまるで、その場にいる全員に呪いをかけるような仕草だったという。

誰一人としてスターリンを本気で心配せず、迅速な処置を施そうともしなかった。父は彼らに見殺しにされたのです、とスヴェトラーナは言う。

Unknown authorUnknown author / Post-Work: User:W.wolny, Public domain, via Wikimedia Commons

食い違う証言

スターリンの死に関しては、不興をかうのを恐れるあまりに発見が遅れたことが致命的になったというのが通説であり、公式発表は脳内出血による病死である。
しかし一方で、やはり暗殺説は根強い。1993年に公表された、元外務大臣モロトフの記録には、スターリン毒殺を自慢するベリヤの記述がみられる。粛清リストに挙がってしまったベリヤやフルシチョフらが先手を打ってスターリンを殺害したという説と符合する。
もちろんスヴェトラーナの主張のように、異変が起きたときに彼らはまだ別荘にいて、意図的に医師を呼ばず、見殺しにした可能性も捨てきれない。見事なまでに食い違う証言をいくつか挙げてみる。

  • フルシチョフの発言 その1
    「2月28日、ダーチャで朝方までパーティーをした。スターリンはご機嫌で寝室にひきあげた。われわれは帰ったよ」
  • フルシチョフの発言 その2
    「2月28日も翌日もスターリンからの呼び出しは受けていない。週末に私用で呼びつけられないのはめずらしいことだったから覚えている」

フルシチョフの発言には明らかに矛盾がみられる。軍人で歴史家のドミトリー・ヴォルコゴーノフもまた、この点を補足している。

  • ヴォルコゴーノフが取材した第三者の発言 その1
    「その日、スターリンは別荘で夜通しフルシチョフらと重要な会議をしていた。パーティーではない。スターリンは地獄のように機嫌が悪く、召集メンバーに怒鳴り散らした」
  • ヴォルコゴーノフが取材した第三者の発言 その2
    「翌日の昼になってもスターリンは起きてこなかった。誰もが不審に思ったが、彼らからスターリンに働きかけることは御法度だったため、ようすをみていた。すると午後6時半ごろ、書斎に明かりがついた。が、しばらくしてそれは消えた」
  • ヴォルコゴーノフが取材した第三者の発言 その3
    「夜11時ごろ、1人がドアを開けて中に入ると、食堂でスターリンが倒れていた。彼は起き上がれず、助けを求めるような身振りをした」

書斎に明かりをつけたのは、おそらくスターリンではないだろう。書斎と食堂は近接していたため、明かりをつけた人物はスターリンの異変に気づいた可能性が高い。だとすれば、殺意をもって放置したと考えるのが自然である。部下の使い捨てを得意とするスターリンだけに、側近たちが戦々恐々としていたのは想像にかたくない。ペレストロイカ時代ですら、スターリンの死をめぐる詮索はタブー中のタブーだったという。

スターリンが長く苦しんだあと孤独に死んでいったのは、非人道的な悪政と、罪なき命を奪いつづけた報いなのか。
後継国であるロシア連邦の国家指導者もまた、スターリンの劣化コピーになり下がった。彼もこのまま、史上最恐の独裁者と同じ末路をたどるのだろうか。

参考文献:『七人の首領』ドミトリー・ヴォルコゴーノフ著/生田真司訳
featured image:Роман РомановによるPixabayからの画像

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コメント一覧 (1件)

  • 彼の国の独裁の系譜が秀逸な文面で綴られていました。関連本を掘ってみたくなりました。

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