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今川三代を主導した女戦国大名 寿桂尼

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後継者争い「花倉の乱」を制す・・・寿桂尼は藤原北家勧修寺流の一つ、公家の中御門宣胤の娘です。

延徳2年(1490年)ごろの生まれと推定する説があり、永正2年(1505年)ないし永正5年(1508年)に今川氏七代当主氏親のもとに嫁ぎます。
寿桂尼の結婚によって今川氏と京の都の公家との文化交流が頻繁になり、氏親との間に嫡子・氏輝、五男義元を生み、女子は何人生んだかは不明、夫の氏親が駿河・遠江の戦国大名となって安定した矢先、51才くらいのとき中風で寝たきりとなってしまいました。

幸いなことに、氏親が倒れてから死ぬまで5年間あり、寿桂尼は病の夫を補佐しながら政治的手腕を磨くことができたのです。
大永6年(1526年)4月14日に「今川仮名目録」が制定、このわずか2ヶ月余後、氏親は病没してしまいました。
このことから「今川仮名目録」制定に、寿桂尼の関与が推定されます。氏親56才で死亡、このとき氏輝は14才であり、30代半ばと思われる寿桂尼は出家して「寿桂」となのり、そしてまだ若い氏輝に代わり寿桂尼が政治の表舞台に出ていくこととなりました。

永正6年(1509年)9月26日、すなわち氏親の死後3ヶ月には寿桂尼自ら、領国支配の文書を発給、この文書に押してある「歸(とつぐ)」の印は、氏親のもとへ嫁ぐときに、父・中御門宣胤からもらったものです。
氏輝の所見文書が出されまでの約2年間、寿桂尼は氏輝の代行者でなく、「女戦国大名」として領国支配をおこないました。
寿桂尼は氏親亡きあとの今川家中をまとめ、政治的手腕を示し、ついで氏輝・彦五郎が天文5年(1536年)3月17日に死亡したときには、全力を尽くし力を発揮します。

24才で突然氏輝が死んでしまい、後継者争いが起き、氏親には6人の男子がいましたが正室寿桂尼が、生んだ長男の氏輝と五男の義元で、家督争いになったのは。バッテリー梅岳承芳(義元)と玄広恵探で、玄広恵探で、玄広恵探は氏親の側室福島左衛門の娘です。

一説では寿桂尼は玄広恵探と「同心」し、家督相続争いを押したとする説がありますが、今川氏7代当主の正室、寿桂尼は、自分が生んだ梅岳承芳にぜひとも今川氏を継がせたかったのです。

そこで太原雪斎と組むことで、今川家中に混乱をもたらさないために、玄広恵探側と話し合ったことを「同心」と理解したいです。
何より梅岳承芳(義元)は正室の子であり、寿桂尼が病に倒れた氏親を補佐し「女戦国大名」として、領国経営に乗り出した実績は大きい、家臣たちは梅岳承芳擁立に回り、梅岳承芳対玄広恵探の争い「花倉の乱」は、天文5年(1536年)6月10日、玄広恵探が普門寺で自刃して収束、今川義元が第9代当主となり、甲相駿三国同盟も成立、今川氏は海道一の安定した勢力となります。

ところが永禄3年(1560年)5月19日、義元が桶狭間で織田信長により討たれてしまい、義元の後を継いだ氏真は、政治的力量がなく、寿桂尼が前面に出ざるを得なくなります。

永禄7年(1564年)寿桂尼は発給文書を出しますが、同8年(1565年)以後、政治活動は全くみられません。武田信玄の駿河侵入の脅威から守るため、寿桂尼は駿河の鬼門に収束龍雲寺を開き、自らそこに葬られます。
永禄11年(1568年)3月24日、80才近い年齢でした。
この年の暮れ、武田信玄に駿河は攻められてしまいます。

※画像はイメージです。

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