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男色は日本の文化?武士の衆道や僧院の稚児、江戸の陰間の実態

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ジャニー喜多川氏の死後、ジャニーズ内の性加害が物議を醸しています。実のところ成人男性が少年に奉仕を求める風潮は、平安時代には既に存在しました。
今回は日本の男色文化の語られざる側面を掘り下げていきます。

目次

古事記にも男色の記述。天照大神は男だった!

日本の男色文化の始まりは神代まで遡ります。
江戸時代前期の戯作者・井原西鶴は、著作「男色大鏡」にて、天照大神は男神であると主張。さらには日千麿命が天照大神の稚児だったと唱えました。

井原西鶴曰く、伊耶那美命が生まれるまで地上には男神しかおらず、多くの神々が男色に耽っていたそうです。
神道と男色の関わりは深く、720年に著された『日本書紀』に、小竹祝と天野祝の恋人が登場します。

彼等は神主の立場にありながら愛し合い、先に病没した小竹祝を追って天野祝が自害したのち、生前の誓い通りに合葬されました。この行為は「阿豆那比の罪」と見なされ、長い夜が訪れます。「阿豆那比の罪」の詳細には言及がなく、神職の合葬を問題視する派と、同性愛が神の怒りを買ったとする派で意見が分かれています。

稚児と僧侶の秘密の戯れ

仏教は異性同性問わず性行為を禁じていました。しかし人間たるもの、仏門に入った所で完全には煩悩を断ち切れません。時代が下るごとに規律は緩み、抜け道が用意されます。
当時の寺院において、僧侶の身の周りの世話をする稚児は特別視されました。
平安時代、真言宗や天台宗の寺院が12~18歳の修行僧を置き始めます。
彼等は稚児と呼ばれ、剃髪はせずに着飾り、僧侶の下の世話も引き受けました。
その中でも行儀見習いとして送られた貴族の子弟は上稚児、賢さを買われ僧侶の侍従を務める中稚児、芸達者な下稚児に位が分かれます。

中稚児・下稚児には売り飛ばされてきた者も多く、求められたらまず逆らえません。上稚児だけは例外で、後見人の威光に守られていました。
寺院で男色が蔓延した背景には、「稚児灌頂」と呼ばれる儀式が関係しています。
この儀式を経た稚児は神格化され、男でも女でもない第三の性として、婬戒(いんかい)の対象から外れるのです。
「稚児灌頂」を済ませた稚児には、〇〇丸の名前が新しく与えられます。鞍馬寺で育った牛若丸(のちの源義経)もその手の経験をしたのでは、と妄想が膨らみますね。

上田秋成「雨月物語」収録の「青頭巾」は、溺愛する稚児に死なれ、その死体を食って鬼と化す高僧の物語。
稚児と僧侶の悲恋は多くの文学作品に取り上げられており、世間の関心の高さが窺えました。
江戸時代の儒学者・貝原益軒は、「男色の戯れは弘法以来のことなり」と書いています。
弘法大師、即ち空海が修行先の唐から男色文化を持ち帰ったというのが噂の出所ですが、してみると仏教と男色は切っても切り離せないのでしょうか。

中には華厳宗東大寺の僧侶・宗性のように、百人以上の稚児を囲った猛者もいました。
室町時代に流行したお伽草子では、僧侶と稚児の恋愛を扱った「稚児物」が人気ジャンルだった事から、手籠めにする側に罪の意識はなかったのでしょうね。むしろ純愛と思っていた節があります。

「源氏物語」がほのめかす藤原頼長のタブー

平安時代に成立した「源氏物語」。これは女官・紫式部が書いた日本最古の小説で、天皇の子として生まれた貴公子・光源氏の、波乱万丈な恋愛遍歴を描きました。
実は「源氏物語」にも男色を匂わす描写があります。それというのも「源氏物語」のテーマは形代の愛、即ち身代わり。

光源氏は複数の恋人と離別・死別し、その代わりとして彼女たちの娘や近親者を愛しました。
ここで特筆すべきは当時の宮廷事情。政略結婚が主流だった平安時代の貴族男性は、姻戚の繋がりを深める為に、妻の兄弟と関係を結ぶことが多かったそうです。
光源氏の場合は夜這いを果たせなかった腹いせに、空蝉の弟の小君と関係を持ったのではと疑われました。作中にも「小君を抱いて寝た」と書いてあります。「抱いて寝た」がそのままの意味か、はたまた情事をさすのかは読者の解釈に委ねられます

また、平安時代に権勢を誇った貴族・藤原頼長の「台記」には、普段はタチの頼長が、藤原忠雅に下剋上された際の驚きと喜びが赤裸々に綴られていました。
他にも藤原隆季と寝たいが為に忠雅に仲介を頼み、それが不発に終わるや「一度だけでも」と願掛けを行ったり、隆季の弟の成親と同時に果てたことを自慢しています。

室町時代は男色で主従の絆を深めた

室町時代に武家が台頭すると、男色文化はさらに隆盛を極めました。南北朝を統一した足利義満からして、積極的に男色を取り入れ、主従の絆を強める原動力にしたのです。
主君と小姓の契りは衆道と呼ばれ、妻子を残し合戦に出た武士は、目下の者を可愛がりました。戦国武将・織田信長が森蘭丸を寵愛した史実は有名ですね。
ちなみに森蘭丸は通り名。本名は森成利といい、乱法師とも表記されます。

衆道の特徴は抱く側抱かれる側に明確な差があること。これは年齢や立場に起因し、年長者が年少者を抱くことで成立します。原則若者が受けに回る為、若衆道とも呼ばれました。
上記の説明だと一方的な搾取にとれますが、主君に取り入り成り上がる為、進んで色仕掛けを試みた者もいたそうです。
が、誘惑してくるのが味方だけとは限りません。色仕掛けは敵にも有効です。
桂男の術は敵陣に間者を潜ませる忍術。

これは衆道に流用され、敵を篭絡したスパイは寝物語で重要情報を聞き出していました。
桂男の由来は中国の伝説で月に住むと言われる男、転じて美男をさします。
前出の「雨月物語」には、衆道の契りを交わした相手のもとへ、自害した武士が化けて出る「菊花の約」も収録されていました。

江戸時代は陰間が流行!

江戸幕府が開かれ政情が安定すると、男色文化は庶民の間に広がっていきました。
陰間とは本来、歌舞伎役者見習いの未熟な少年をさす呼称です。実力不足故舞台には上がれません。
光の当たらぬ裏方に徹するから「陰の間」、転じて「陰間」と称される少年たちは、江戸市中に点在する茶屋で身を売って生活費を稼ぎました。
陰間の年齢は13~20歳。主な客は男性ですが、稀に女性も買いにきました。

陰間茶屋、別名子供茶屋が密集していたのは湯島天神や麹町平河天神界隈。
当初陰間は島田髷に振袖を羽織り、顔には白粉を塗っていました。時代が下るに伴い服装は簡素になり、男の姿のまま客をとるようになります。同時に役者兼業は減り、売春を専業とする者が増加。
江戸時代に刊行された歌舞伎役者のランキング本「役者評判記」は陰間の手引きとしても愛読されました。

花形の役者が脚光を浴びるのと対照的に、陰間の現実は過酷です。
陰間たちは十歳前後から特殊な器具で体を慣らし、性行為への耐性を付けます。
しかしニ十歳をこえる頃には年増とされ、役者として芽が出ない者は、路頭に迷うほかありませんでした。

Nishikawa Sukenobu, Public domain, via Wikimedia Commons

日本の男色は機会的同性愛が主流だった

以上、日本の男色の歴史を紹介しました。過去を掘り下げるうちに見えてきたのは、日本の男色文化が機会的同性愛を土壌にしている事実です。
機会的同性愛とは女性がいない環境で生じる同性愛で、刑務所や男子校、軍隊でよく見られます。

その場合、目上の者が目下の者を女性の代用にするのが主流でした。
誰を好きになるかは個人の自由ですが、未成年の性的搾取は蛮習と見なすべきです。今後は性別年齢問わず、互いを尊重し合える関係を築いていきたいですね。

※画像はイメージです。

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