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八咫烏に象徴される「鴨長明」

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我が国の代表的な随筆といえば、清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」が挙げれるでしょう。
ここでは、鴨長明は「方丈記」についてを考えてみました。

目次

鴨長明とは?

鴨長明は西暦1155年に生誕し1216年の没したと言われる歌人。逝去する数年前に「方丈記」を執筆したようである。
京都下鴨神社の禰宜の次男として生まれた。下鴨神社のご祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)であり、記紀神話の神武東征において道案内として登場する八咫烏(やたがらす)のことであると言われている。

幼くして両親を失なって後ろだてをなくし、かつ長男ではなかったこともあって、有名な神社の禰宜の息子に生まれながら望んでいた神職の要職に就くことができなかった。鴨長明の和歌作成への傾倒と琵琶演奏習得への傾倒は、このような背景があったからのようである。この才能によって、ある程度華やかな生活を行うことができたようである。
源実朝の和歌の先生になろうとしたようであるが、うまくいかなかった。それでも若いときは妻子と共に一家を構えていたようある。
50歳ぐらいで隠遁生活に入り、京都に小さい家屋(本人は方丈の大きさと述べている)で暮らすようになった。

鴨長明が詠んだ和歌の特徴

鴨長明が詠んだ和歌を調べてみたが、一つ気がついたことがある。それは「嵐吹く」という言葉が入った和歌がかなりあることである。世の移り変わりの激しさを感じていたからであろうか?

その中の一つとして「嵐吹く有明けの空に雲消えて月澄み昇る高円の山」がある。
俗世間的な面倒なことはさっぱりと払い除けて、美しい一つの対象(この和歌の場合は「月」であるが)、例えば、神社に祭られた神様とか仏教の阿弥陀様とかに、想いを集中したいというような心が感じ取られる。
「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の方丈記の出だしの言葉は、仏教の無常観を表している。

歳を経て鴨長明が悟った無常観は、諦めの境地ではなく、積極的な無常観であると思われる。欲を捨て、最低限必要なものだけを求め、それによって欲の苦しみに迷い込まないようにすることを勧め、人間社会は恐ろしいところだから深入りせず心豊かにすごすべきだとも。

また大火、竜巻、飢饉、大地震の経験も記し、地震については余震のことも注意として述べているのが興味深い。

方丈記とは

鴨長明は生まれてすぐに、平清盛が勝利した平治の乱(1159年)を体験し、源頼朝の挙兵(1180年)、鎌倉幕府の成立(1192年)、鎌倉幕府執権北条氏の権力が確立された承久の乱(1221年)と、公家主導の世の中から武家主導の世の中への推移に伴う栄枯盛衰、福原遷都と都の京都への復帰とをつぶさに見てきたのであろう。

故に栄達を望む心と人々の幸福を望む心の二つを有していて、若いときは前者の心が強く、歳を経てからは後者の心が主となって、官や僧侶のように人々を導くことが、神社出身の自分の責務であると考えるようになったのではないかと推量する。
したがって方丈記は随筆というより、人として守るべきことがらに関する人生訓。
例えば下鴨神社のご祭神である八咫烏が東征軍に対し大和への道を案内したように、人々の人生を案内するために記されたものであると言える。

featured image:鴨長明(菊池容斎画、明治時代), Public domain, via Wikimedia Commons

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