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観心寺に漂う歴史上の人物の心

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大阪府の東南部にある、かっては広大な寺領を誇った観心寺に関わった、人物の心の動きについて述べます。

目次

観心寺とは?

観心寺は当初雲心寺といい、西暦701年に役小角が開きました。
弘仁6年(西暦815年)に、弘法大師空海がこの地を訪れ、伝承の域を出ませんが自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えました。したがって、現在は真言宗のお寺です。

弘法大師空海

弘法大師空海は、四国の佐伯の直田公(さえきのあたいのたきみ)と阿刃(あと)氏出身の母との間に三男として生まれました。母方の叔父阿刃大足(あとのおおたり)について漢籍を学び、幼年期には神童と呼ばれるほど。

西暦804年から西暦806年の二年間、唐に留学して、たった二年間の勉学と修行によって、青龍寺の恵果師から真言密教の第八祖を継ぎました。中国語使用の世界において、並み居る中国の優秀な弟子達を飛び越えて第八祖を受け継いだのですから、いかに弘法大師空海が優秀であったかということが分かります。

空海は帰国後、ときの嵯峨天皇に唐から持ち帰った書や詩を献上し、朝廷とも良好な関係を築きました。これは対人関係構築の一環で、真の対象は民であったことは、その後の活動から明らかです。

弘法大師空海は、曼荼羅によって、広大な宇宙の世界を分かりやすく民に示しました。万能の人空海は、優れたアーティストでもあり、その能力が、観心寺の秘仏となっている如意輪観音像を作成することを可能にしたのだと思います。つまり、弘法大師空海が如意輪観音像の製作者であることは真実であると考えます。

如意輪観音像

この如意輪観音像を始めて視たとき、何とも言えない衝撃を受けました。奈良や京都で多くの仏像を視てきましたが、観心寺の如意輪観音像から受ける感じは初めてです。
一言で言えば、女性の生命力が溢れているような仏像で、特に斜め前方から視たとき、その感じを強く受けます。お坊さんは線香くさい人達だと思い込んでいましたが、この仏像から受ける感じは、生命の賛歌そのものです。

それは真言密教の一つの柱になっているようで観心寺にはもう一人の歴史上の人物が葬られています。その人物の紋所は菊水、皇室の紋所の半分を表しているように見えるのです。

南北朝時代に南朝側として奮戦した楠木正成の首が、湊川において敗死し京都でさらされた後、葬られています。観心寺は楠木氏の菩提寺であり、忠臣の弔いを寺側が望んだのでしょう。
楠木正成は、少年期に観心寺で修行しており、きっと、あのすばらしい如意輪観音像も拝んでいたのでしょう。

今は、観心寺に帰り仏様の懐に戻ったことでしょう。

※画像はイメージです。

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