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ドラマでは描かれない日本史のタブー~鳥取城の渇(かつ)え殺し~

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戦国の世から幕末までの築城技術がひとつの城址に残ることから、「城郭の博物館」と呼ばれる鳥取城。
広大な城跡には、かつて戦国時代の山城と麓の近世城郭があった。
現在、30年計画の復元工事が進行中だが、天球丸跡の巻石垣の修復が終わったあと、筆者は現地を訪れたことがある。この城は、日本史上まれにみる凄惨な戦の舞台となった過去を持つ。

天正9年、2万の大軍を率いて城を包囲した羽柴秀吉。これを迎え撃つために、自らの首桶を携えて決死の覚悟で入城した吉川経家(きっかわつねいえ)。経家が天守から目にした光景は、まさにこの世の地獄だったにちがいない。

目次

呪われた城・鳥取城と悲劇の代理城主・吉川経家

酸鼻の極みと歴史が伝える「鳥取城の渇え殺し」。「三木の干殺し」「高松城の水攻め」と並んで、「秀吉三大城攻め」と呼ばれる攻城戦だ。
はるか時代が下った昭和の父島事件にもみられるように、屍肉を食らう戦びとの記録は日本史に皆無ではない。けれど鳥取城の戦いは、その凄絶さにおいて他に比するものがない。

陰惨な食(じき)攻めのありようから、映像作品では割愛されるかナレーションのみの紹介で終わることが多く、大河ドラマ『軍師官兵衛』でも見事にカットされていた。70年代の『黄金の日日』で映像化を試みたのは、今思うと特筆に値する。もっとも、この籠城戦を史実に忠実に再現すると大変なことになるので、制作側の判断は妥当といえるだろう。

ことの起こりは織田信長が秀吉に中国攻めを命じたことにはじまった。
主君の期待に応え、次々と城を落として進軍する秀吉に、西国の雄・毛利氏が立ちふさがる。天正9年(1581)、鳥取城を秀吉の大軍勢が包囲した。対するは、勇将と名高い石見吉川家当主・吉川経家。先の城主・山名豊国が秀吉の軍門に下ったために、徹底抗戦を本懐とする家臣たちが毛利一族から迎えた新城主だった。

秀吉の周到な事前工作

秀吉の狙いは短期決戦にあった。これに先立つ三木城攻略においても兵糧攻めが行われたが、この時は開城までに1年10か月を要してしまった。自軍の損耗が大きかったことから、今度は早期に決着がつく作戦が必須となる。

秀吉は米や雑穀を高値で買い占め、城内に食料が行き届かないように先手を打つ。つぎに城下の村を襲撃し、領民2000人を城に追い込んだ。口を増やすためである。同時に付城をいくつも築いて城を完全に包囲。築城は秀吉の十八番であり、この時にブラック企業さながらの重労働で仕事を完遂した土木建築集団は、のちの天下統一の立役者になる。

経家は吉川家や毛利家に兵糧の援助を要請するが、秀吉の一手はそれよりも早かった。兵糧米を運搬する毛利軍の陸路・海路の防備を固めて補給路を封鎖。米の通り道を遮断された鳥取城は孤立無援になる。

現世で繰り広げられる餓鬼道の世界

城内の兵糧は、わずかひと月で底をついた。牛や馬はもとより、犬、蛇、蛙、草など食えるものが食いつくされると、彼らは壁の漆喰の藁をも口にした。餓死者が続出するなか、絶え間なく続く敵軍の鉄砲音に疲弊して、人々はしだいに正気を失っていく。

秀吉は、これ見よがしに市場を開き、商人に食い物を売らせ、芸人に歌舞音曲を演じさせるという心理作戦も忘れなかった。
耐えきれずに城外へ飛び出す者、柵をよじ登って逃げようとする者、敵兵に助けを乞う者が相次いだ。彼らが鉄砲で撃たれるたびに、飢えた者たちが目をぎらつかせて群がっていき、まだ息のあるうちに鉈(なた)や小刀で叩き切って食らいついた。とりわけ脳みそは味がよかったらしく、我先に首を奪い合ったと史料は伝えている。

鳥取城落城

4か月にわたる籠城の果てに、経家は自らの首(しるし)と引き換えに兵と民の助命を願い出る。
経家を高く評価し、織田家に臣従させようと考えた秀吉は、先の城主が降伏してもなお徹底抗戦の構えをとった家臣たちの切腹を要求する。戦の種は彼らにあり、新たに城主に迎えられた経家に罪はないという理由だった。

けれど経家は自ら敗戦の責任をとることを譲らず、中村春続、森下道誉とともに自刃して果てる。享年35。
開城した城から出てきた人々の風貌はもはや人にあらず、痩せさらばえて人糞にまみれ、餓鬼のごとく腹が突き出た姿に秀吉軍は震えあがったという。

すぐに粥が炊かれてふるまわれたが、飢餓状態のところへ急に食べ物をかきこんだため、生存者の半数以上がそのまま絶命した。今でいうリフィーディング症候群である。

吉川経家が幼子に宛てた平仮名の手紙

経家が自決の際に残した遺書のうち、3通は現存している。子どもたちに宛てた手紙だけが平仮名を多用しているのは、幼子でも読めるように配慮したものだろう。

「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひゃう(ろう)つきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候 かしこ    天正九年十月二十五日 つね家 花押」
(鳥取のこと、200日のあいだ夜も昼もがんばりました。兵糧が尽き果ててしまったので、わたし一人が御用にたって、みんなを助けて、吉川一門の名を上げます。この幸せな物語を聞いてくださいね)

書状には子どもたち一人ひとりの名前が丁寧に記されているが、「ひゃうろう」と書くべきところには脱字がある。死に臨む経家の胸
中が生々しく伝わってくる。

自軍の戦力を温存し、敵を飢えさせて落城を待つ兵糧攻めは、城攻略の戦術のひとつには違いない。その最大の利点は、『孫子』の兵法がいうところの「戦わずして勝つ」ことにあるだろう。けれども、それが人為的に引き起こされた飢餓地獄であることは歴史に永遠に刻まれる。

食攻めを好んで用いる武将がいた一方で、武人として潔しとしない武将もいたのではないかと思うのは、戦国の世を知らぬ現代人の甘さだろうか。人に人を食らわせた秀吉に、どのような感情が生まれたのかは知るよしもない。

※画像はイメージです。

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