階級殺戮?1万5000の高級将校が消えた「カティンの森の虐殺」

たとえ国家権力が隠蔽を謀ろうと、人間として真実を知っておきたい事件はある。
第二次世界大戦のさなか、ポーランドの軍人や知識層が忽然と姿を消し、ソ連の秘密警察に殺害されたカティンの森事件もそのひとつだ。

およそ半世紀にわたってポーランドの人々は語ることが許されず、真相究明もタブーとされた戦争犯罪。スターリンは嘘をつき、チャーチルとルーズベルトはソ連に歩調を合わせて黙殺を決めこんだ。この事件は、第二次世界大戦がいかに複雑な戦争であったかを物語っている。

受難の国、ポーランド

両サイドがソ連とドイツという問題児だったばっかりに、理不尽な運命に翻弄され続けたポーランド。
1939年、隣人たちは独ソ不可侵条約を結び、ポーランドを仲よく東西に分割して併合する。ここでいったんポーランドは世界地図から姿を消す。ところが、その後ドイツは条約を破ってソ連領に侵攻、ポーランド東部を占領下におく。すると今度はソ連がドイツを叩いて追い払う。両隣りが人の庭でハッケヨイノコッタをするたびに、ポーランドは踏みたくもない忠誠の踏み絵を踏まされた。途切れることのない受難は、軍事大国にはさまれた地理的不幸が多分に影響していただろう。

ナチスドイツによるホロコーストの陰に、とかく隠れがちなカティンの森事件。スターリン体制のソ連がポーランド人を大量虐殺した戦争犯罪だ。
赤い占領者の蛮行は誰もが知っていたのに、長いあいだ事件の真相に触れることはタブーだった。ようやくソ連が責任を認めたのは、壁が崩れ、半世紀を経て、自国が崩壊寸前になった1990年のことだ。

スターリンのついた真っ赤な嘘

現在のロシア西部、スモレンスク郊外にカティンの森はある。1920年代から、この森は政治犯の処刑地だった。
1943年2月、この地を占領していたナチスドイツが森のなかでポーランド軍人の遺体を発見する。調査したところ、7つの穴に遺体が幾重にも重なって埋められているのが判明(のちに8番目の穴も発見されている)。遺体はみな冬用の軍服を着て、後ろ手に縛られ、背後から頭部を撃ち抜かれていた。

遺体を埋めた跡に植えられた樹木の年輪や、死後3年たたないと発生しない物質が脳から検出されたことから、埋葬されたのは3年前、ソ連軍がこの地を占領していた時期と推定された。ソ連の犯行を思わせたのは、手首のロープの結び目がロシア結びだったことにある。

この一件を由々しき事態ととらえたナチス上層部は、対ソプロパガンダに利用して意気揚々と世界に向けて公表する。ところが、敵にダメージを与えるはずだったプロパガンダは、「ふざけるな。ナチスの自作自演による対ソ宣伝である」というブーメランとなって返ってきた。「ああ、あのチョビヒゲならやりそうなことだよね」というわけで、連合国の冷ややかな視線がドイツに注がれる。ヒトラーとスターリンという世紀のモンスターが、互いに事件を利用して、相手のイカレっぷりを世界にアピールしていたわけだ。

そんな隣人たちに母国をいいようにされていたポーランド政府は、この時ロンドンに亡命中だった。亡命政府はソ連に説明を求めるが、返ってきた言葉は「知らんがな」。ドイツのしわざなのだから当然だ。スターリンは一貫してドイツの捏造と主張し、戦後ポーランドはソ連の衛星国となって、真相に踏み込むことすらタブーになってしまった。

死体遺棄現場でソ連による虐殺が行われたことをドイツ国防軍の将校から説明を受ける
■死体遺棄現場でソ連による虐殺が行われたことをドイツ国防軍の将校から説明を受けるUnknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

英米も黙殺した真実

ナチスドイツによる調査には連合国軍の捕虜も同行しており、当時の英首相だったチャーチルは、この虐殺はソ連によるものと確信していたといわれる。チャーチルだけでなく、米大統領のルーズベルトも「ソ連による行為」と結論づけた自国の調査報告書を受けとっていた。しかし、それらは握りつぶされ、公表されることはついぞなかった。

第二次世界大戦の命運をスターリンに握られていた両者は、真相を知っていながら黙認したのである。カチンの森事件の真相は、むしろ列強によって闇に葬られたといえるかもしれない。

地獄行きの片道列車

カティンの森で虐殺が行われたのは、ソ連軍がポーランド東部を占領していた1940年春のこと。
20年前のポーランド・ソ連戦争で顔をつぶされたスターリンが、ポーランド軍人に私怨を抱いていたことが引き金になったといわれている。この戦争に従軍した者が多く犠牲になったことからも、彼の強い怨嗟がうかがえる。
またポーランド軍の指導階級である将校を抹殺することで、指導力を低下させる狙いがあったとみる向きある。

1940年の春、捕虜が収容されていたラーゲリ(強制収容所)のひとつで、「諸君は、これより西へ向かう」という告知があった。ポーランド人にとって西は祖国の方角であり、それは釈放を意味した。捕虜たちは喜び合うが、「西へ向かう」という言い回しは死地に向かうというスラングでもあった。彼らは地獄行きの片道列車に乗せられて、それきり消息を絶つ。

NKVD(秘密警察)の秀逸な処刑方法

ソ連のNKVDが捕虜たちの銃殺に用いたのは、1人につき1発の弾丸だった。
背後から頸部に撃ち込んだ銃弾は、頭の中を斜め上に貫通して額へ抜ける。熟練を要するが、出血も少なく、手早く確実に殺すことができる。ソ連秘密警察が大粛清の時代を通じて常用し、練り上げてきた秀逸な処刑方法だった。ナチスドイツのゲシュタポが処刑方法
でNKVDに勝てるのはガス殺だけだったといわれる。
使用された拳銃はドイツ製ヴァルター(ワルサー)。弾丸もドイツ製。実行者はモスクワから派遣されたスターリン直属の処刑人125名。

「西へ向かう」と告げられた捕虜たちは、スモレンスク郊外のグニエズドヴォ駅で降ろされた。
ドニエプル川がゆうゆうと流れている。ここで釈放されるのだろうか? つぎに彼らは黒塗りの輸送車に移されて、約3キロ先の森へ連れて行かれた。そこには金網をめぐらせた一角があり、8つの穴が掘ってあった。

NKVDは1人ずつ輸送車から降ろして穴の縁に立たせ、粛々と射殺していった。ロープで縛られた遺体、外套をまくりあげて頭に被せられた遺体、口にボロ切れが詰められた遺体、銃剣でとどめをさされた痕のある遺体。痛ましい抵抗のあとにほかならない。あたりまえだ。理不尽な処刑におとなしく従う軍人がどこにいるというのか。

発掘された遺体
■発掘された遺体Photo : unknown, probably Polish Red Cross delegationUploaded by Andros64, Public domain, via Wikimedia Commons

ゴルバチョフが謝罪し、プーチンがひざまずく

80年代後半になると、ソ連ではゴルバチョフの掲げたペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進み、やがてソ連・ポーランド合同の調査委員会が立ち上がった。1990年、ゴルバチョフはソ連の犯行と認め、ポーランド政府に謝罪する。

2010年4月、ロシアのプーチン首相は、慰霊施設カティン・メモリアルにポーランド首脳を初めて招いてセレモニーを開き、慰霊碑の前にひざまずいた。
「スターリンの犯罪は、どんな形であれ正当化できない。ソ連では数十年のあいだ、カティンの残虐行為の真実を否定しようとする嘘が繰り返されてきた」
ただし、ロシア国民に罪をかぶせるのは正しくないと述べ、謝罪を拒否。責任はソ連にあって、ロシアにはないということか。

名作『灰とダイアモンド』の映画監督であるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダは、2007年に『カティンの森』という映画を撮った。カティンの森の犠牲者のなかに、ポーランド軍大尉だったワイダの父がいた。戦争が終わっても、その死を信じず、帰還を待ちつづけた家族の物語と民族の思いが交錯する。当時のポーランドを包んでいた重苦しい閉塞感と、「ポーランドに自由はこない」という嘆きが映像や音楽に満ちている。すべてが終わったあとのエンドロールが、なんと雄弁であることか。

世界規模の戦争ともなれば、列強の立場や思惑が入り乱れて当然だ。だとしても、戦争犯罪は消せるものではない。事件をリアルタイムで知らない世代としては、せめて正しく伝える努力をするだけだ。言うまでもなく、カティンの森事件は数ある虐殺の氷山の一角にすぎない。

参考文献
『カチンの森』ヴィクトル・ザスラフスキー著/根岸隆夫訳、『カティンの森』アンジェイ・ムラルチク著/工藤幸雄・久山宏一訳
eyecatch source:作者のページを見る, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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