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危険承知で日本へ渡海した理由を探る

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第10次遣唐使は、唐への入唐および唐からの帰国に苦労し、特に帰国時に、船の遭難などが原因で多くの犠牲者が発生しました。このことは、台風の発生が多い季節に帰路に就いたことが主因と思われます。
何故、波斯人である李密翳と唐人である皇甫東朝、皇甫昇女とが、渡海の危険を冒してまで永住する形で来日した理由を知りたいと思いました。

目次

第10次遣唐使

第10次遣唐使は、多治比広成を大使とし中臣名代を副使として、4艘の船で難波津を西暦734年の4月に出発し、全船はなんとか無事に蘇州に到着、その後、唐朝に拝謁。西暦734年の10月に4艘の船全ては帰国の途に就いたが、全ての船が遭難した。
第1船は11月に種子島に漂着し、多治比広成、吉備真備、玄昉らは帰国することができ、3月に節刀を返上した。
第2船の遣唐副使中臣名代(なかとみのなしろ)は、帰路に就いた船が唐に流し戻され、唐の援助で船を修復し、当初帰路の乗船メンバーに入っていなかった、唐の楽人である皇甫東朝(こうほとうちょう)、皇甫昇女(こうほしょうじょ)と波斯人(ペルシャ人)である李密翳(りみつえい)とを伴って帰国しました。なお、李密翳(りみつえい)は波斯清道(はしのきよみち)と同一人物である可能性があります。
第3船は難破し、平群広成らは崑崙国に漂着し、現地勢力の攻撃を受け4名のみが脱出して唐に戻った。
第4船は行方不明になっている。

平群広成らは、唐に滞在していた阿倍仲麻呂の奔走により海路渤海国に入り、渤海船2艘で日本海を渡ったが1艘が波にのまれ転覆し、平群広成や渤海副使が乗船していた船のみが、7月に出羽国に到着した。

皇甫東朝、皇甫昇女

皇甫東朝、皇甫昇女は楽人であり、楽人の地位は中国では必ずしも高くなかったが、皇甫氏の出自は中国の貴族である。おそらく、唐の朝廷は阿倍仲麻呂や吉備真備や中臣名代を経由して、大和朝廷が、ペルシャに原点を有する宝物を管理できる人材と、仏教の式典などにも必要な発展した唐の音楽の理論や演奏に長けた楽人を、日本に招聘したいと望んでいることを知ったのであろう。
この招聘の話が急に進展したのには、玄宗皇帝の側近になっていた阿倍仲麻呂の陰の努力があったような気がする。

皇甫東朝、皇甫昇女は、大和朝廷の招聘熱意に感じ、後の鑑真和上のように危険を承知で日本に渡ることを望んだのであろうか。あるいは、大和朝廷が、日本に招聘後、李密翳と皇甫東朝および皇甫昇女を比較的価値のある官位に叙した。
皇甫東朝、皇甫昇女については、最終的には貴族に叙したことから推測して、阿倍仲麻呂は、日本に招聘後の処遇についても、これらの人々に渡海前に告げていたのかもしれない。皇甫東朝、皇甫昇女は、同姓であり、日本においてほぼ同等の官位に叙されていることを配慮すると、兄弟姉妹であったとも考えられる。これら3人は、聖武天皇に拝謁している。

波斯清道

この時代のペルシャは、シリアのダマスカスを首都とするウマイヤ朝の支配下にあった。
ペルシャは、かっては世界に覇を唱え高い文明を築いた帝国であったが、世界帝国である唐に在住しているペルシャ人は、故国に戻って生活することを必ずしも望んでいなかった可能性がある。また、シルクロードを通じてペルシャの高い文明を知っていてペルシャに敬意を払ってくれる日本を今後の生活場所として選んだ可能性がある。

波斯清道は、平城宮跡の発掘で発見された木簡の解読によって、実在が確認された。式部省大学寮に勤務する員外大属の官吏として処遇されている。ペルシャ人を意味する文字が出土品において確認されたのは、国内で初めてである。
この時代、大和朝廷はインド文明を含む世界の先進文明の吸収に貪欲であった。

※画像はイメージです。

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