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老いても活躍した吉備真備

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老境に入ってからの活躍が目立つ、吉備真備(きびのまきび)の生涯を調べてみました。

目次

吉備真備とは

吉備真備は、稚武彦命を祖とする下道臣の子孫とされ、皇別氏族であるといわれている。大和王権宗家に逆らった一族に近い一族の出身ということになる。
西暦695年に備中国下道郡也多郷土師谷天原(現在の倉敷市真備町)に生誕し、父は下道圀勝、母は楊貴氏とされる。楊貴氏墓誌が奈良県五條市から出土し、楊貴氏とは大和の豪族八木氏のことであるという。

吉備真備の人生

下道一族は、皇別氏族とはいっても、歴史における乱の問題を抱え、さらに地方の地盤を拠り所とする一族だったので、当初、中央の大和朝廷における吉備真備の地位は低かった。しかし、優れた学識を買われて西暦717年の22歳頃に、阿倍仲麻呂らと共に第9次遣唐使の留学生として入唐した。

西暦734年に40歳近くで帰国し日本に多くの書籍と物品をもたらし、これが朝廷によって評価され、官位は一挙に十階昇進して正六位下に叙せられた。

西暦752年に第12次遣唐使が派遣され、吉備真備は副使として再度入唐し西暦753年に鑑真を伴い帰国する。このとき吉備真備は60歳近くになっていた。西暦764年に藤原仲麻呂の乱が発生すると、70歳になっていた吉備真備は従三位の参議に叙せられ中衛大将として追討軍を指揮し、藤原仲麻呂に味方する勢力の軍の集結を防ぎ、分断するなどの適切な軍略によって乱を鎮圧した。この功により、西暦766年には従二位の右大臣に昇進した。孝謙上皇は重祚して称徳天皇となった。

称徳天皇の崩御後、誰を次の天皇として推すかについて故称徳天皇の意向に沿うことを望んだが、朝廷上層部における議論において意見が通らなかった。政治家としての筋を通すため西暦771年に辞職し、その後81歳で逝去した。

吉備真備がこの年齢まで、優れた実務能力を有し続けていたことは驚嘆に値する。本来は学者出身でありながら、このような軍事の実務にも長じていた人物は稀である。

さらに81歳まで生きたとすると、当時の一応戸籍に登録されている日本人の男性の平均寿命は30歳前後であったことを考えると非常に寿命が長い。
これは、在唐中に経験したバランスのとれた贅沢な食事に負うところが大きかったのではないかと思う。唐の皇帝や官人は、医学に非常に関心があったというので帰国後も在唐中の食事を参考にしたからであろうか?

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