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吉備国と桃太郎伝説が噂される鬼の城

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吉備国と桃太郎伝説が噂される鬼の城(きのじょう)とは?

目次

吉備国について

吉備国(きびのくに)は、現在の岡山県全域と広島県東部と兵庫県西部とを含んでおり、5世紀前半から中頃にかけて大和王権に並ぶ勢力を有していた。

大和王権は、5世紀後半つまり雄略天皇の時代に、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)の乱(西暦463年)と吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の乱(西暦463年)とを鎮圧した。

現在の岡山県の総社市辺りから西一帯を支配していたのが、吉備氏族のうちの下道臣(しもつみちのおみ)と呼ばれる一族で、孝霊天皇の子供である稚武彦命(わかたけひこのみこと)を祖とする。対して、その東の岡山市一帯を支配していたのが上道臣(かみつみちのおみ)と呼ばれる一族で、孝霊天皇の子供である吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祖とする。

鬼の城

時代が下がって西暦663年に、日本と百済の連合軍は、唐と新羅の連合軍に白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れ、百済の王族や貴族や民の一部は日本に亡命した。

天智天皇は、急遽、瀬戸内海沿いに幾つかの山城を築いて、唐の侵攻に備えた。これら山城の中で規模の大きい城の一つが現在の総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた鬼の城(きのじょう)である。

百済からの亡命者達が有していた山城構築の技術と労力を借りることによって短期間に築いた防衛施設である。標高397mの鬼城山の山頂部に構築され、7~9合目の外周を石塁および土塁による城壁が3km近くにわたって鉢巻状に取り巻いていて、国立競技場を四周するぐらいの長さであり、かなり壮大な規模を有している。

版築土塁が城壁全体の80%強を占めている。飲料水の確保や大雨時の排水のための施設にも配慮があり、長期戦にも耐えられるようになっていた。

後世になって、廃城となった鬼の城を鬼が棲みかとし悪事を行っているという噂が立ち、それによって、この地域に鬼を退治した桃太郎伝説が生まれたという。

※画像はイメージです。

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