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その棺、暴くべからず!作家 山田野理夫が体験した清衡公のミイラの呪い

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2011年、世界遺産に登録された岩手県平泉。
平安時代末期、蝦夷と呼ばれて都びとに蔑まれたこの地には、京洛にも比肩する絢爛たる理想郷があった。それは奥州藤原氏の栄華の都であり、中央政府から隔絶された、なかば独立国だった。中尊寺金色堂には、初代清衡、2代基衡、3代秀衡のミイラと、頼朝に敗れた4代泰衡の首級が今も安置されている。時の権力者が3代にわたってミイラとなって保存されている例は日本でここだけだ。

作家であり、民俗学のオーソリティとしても知られる山田野理夫氏は、生前に清衡公の呪いを体験した人物だった。

目次

不思議な夢

それは、同じ夢を繰り返しみるようになったことからはじまった。

夢の中で、自分はどこかの池のほとりに佇んでいる。かたわらには一基の石碑がある 。すると場面が転換し、今度は杉の木立の坂道を1人でてくてく登っている。なおも登り続けると、木立が開けて寺の本堂らしきものがあらわれる。ここでいつも僧侶に会うのだが、ここはどこだと訊ねても答えてくれない。
奥へ進むと、眩い光がさしてくる。そして丘の上に黄金に輝く建造物を見つけたところで夢はいつも終わってしまう。

そんなある日のこと、山田氏はにわかに右膝が激しく痛みだして立つこともできなくなった。
治療を受けても激痛はいっこうに治まらない。ここで彼は、はたと気づく。この原因不明の痛みは、もしや藤原清衡の呪いではないか。夢の中の寺は中尊寺で、あの眩い黄金の建物は金色堂ではないか。池は毛越寺(もうつうじ)の浄土庭園の大泉が池、石碑は松尾芭蕉の句碑にちがいない。
そう思ったのは理由があった。なんと山田氏は、数奇なめぐり合わせで初代清衡公のミイラの一部を所有していたのだ。

Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

過去に清衡公の棺を暴いた学者たち

話は少しさかのぼる。
朝日新聞文化事業団による藤原3代の遺体の本格的な学術調査が行われたのは1950年のこと。3体ともミイラ状になっていることについて、自然にミイラ化したのか、それとも人工的処置が施されたのかが大きな謎だった。

しかし、じつはこれより前に、ある学者たちが清衡公の棺を開けて遺体を極秘調査したことがあった。その調査中、3人の人間が清衡公の右膝部分に誤って触れてしまい、欠損させてしまう。これだけでも由々しい事態なのに、そのあとがさらにまずかった。彼らはその肉片を調査のために持ち帰ったのである。
しばらくたったころ、1人は電車事故、1人はひどい関節痛、1人は階段から転落して、いずれも右膝に深刻な問題を抱えるようになった。彼らは清衡公の肉片を持ち帰ったことが原因と考え、困りはてて山田氏に相談する。そして問題の肉片を引きとってもらったのだ。

中尊寺に人知れず存在する「清衡塚」

3人と同じように右膝に異常があらわれ、同じ夢を繰り返しみていた山田氏は、これらを警告ととらえ、このままミイラの一部を手元に置いておくのは危険と判断。一刻も早く、清衡公をあるべき場所へ返すために中尊寺に申し出た。
しかし、中尊寺の回答はこうだった。
「清衡公に、元の場所にお戻りいただきたいのは私どもとて山々です。しかしながら、金色堂の棺を開けるのは日本銀行の金庫を開けるより難しい。今後、御遺体は二度と人目に触れることはないでしょう」

清衡公の肉片は、これで永遠に元の場所に戻ることがかなわなくなってしまった。途方にくれた山田氏は、その後、中尊寺の境内のとある場所にそれを丁重に埋葬したという。
山田氏が「清衡塚」と名づけたその一角は、現在も中尊寺のどこかにひっそりと存在する。

平泉には藤原清衡のほか、「義経の呪い」なる伝承も残っている。奈良、京都、鎌倉といった古の都には古人の怨念が渦巻いているといわれるが、いずれも歴史のある土地柄だけに、こうした話にはこと欠かないのかもしれない。

※画像はイメージです。
eyecatch source:毛越寺, Public domain, via Wikimedia Commons

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