260余年の安定した江戸時代を築いた徳川幕府ではあったが、その間にも世界の国々を武力を以て植民地化する西欧諸国の進出の前に開国を余儀なくされ、以後明治維新による近代国家となるべく終焉を迎えた。
明治新政府は富国強兵と殖産興業をスローガンに掲げ、大日本帝国として新たな歩みを始め、1894年の日清戦争、1904年からの日露戦争と対外戦争で勝利を収め、1914年からの第一次世界大戦でも戦勝国となった。
そこから大日本帝国は、イギリス・アメリカに次ぐ世界三大海軍国のひとつとしてその戦力の増強に努め、自国にとっての第二次世界大戦を1941年12月から大東亜戦争(太平洋戦争)として戦いうに至った。
大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦前の時点では、世界各国共により強力な主砲を搭載した戦艦をどれだけ保有しているのかが、その国の海軍力を図る大きな基準となっており、大日本帝国も多数の戦艦を就役させた。
それらの中で今日的には世界最大の排水量と大口径の主砲を装備した大和型戦艦が最も知名度が高いと思われるが、当時はその建造と存在は秘匿されていた為、その前級である長門型戦艦が国民によく知られた存在だった。
しかし実際に大東亜戦争(太平洋戦争)が口火を切ると、大日本帝国海軍の戦艦の中で数多く出撃を果たしたのは、当時もっとも建造時期が古かった金剛型戦艦4隻と言う意外な展開を見せた。
金剛型は当初は巡洋戦艦として建造され、大東亜戦争(太平洋戦争)時には複数回の改修を施されて戦艦の括りに入れられた艦艇であるが、その起こりと最期について見ていきたい。
金剛型の建造経緯
日露戦争における日本海海戦において、世界の海戦史上でも稀に見る完勝をロシア海軍を相手に納めた大日本帝国海軍ではあったが、その旗艦を務めた「三笠」を始めとする敷島型戦艦4隻など主力は全てイギリス製の艦艇だった。
その為その後の日本は1905年から起工された薩摩型戦艦2隻、1909年から起工された河内型戦艦2隻などで艦艇の国産化を図ったが、イギリス海軍は1906年に戦艦「ドレッドノート」、1908年に巡洋戦艦「インヴィンシブル」を就役させる。
殊に従来の戦艦の攻撃力・防御力を飛躍的に進化させた「ドレッドノート」の登場は世界各国の海軍に大きな衝撃を与え、日本も国産ではそれらに比肩し得る戦艦を建造する事が困難である事を痛感した。
更にイギリス海軍は1912年に巡洋戦艦「ライオン」を就役させ、この艦艇の能力に大日本帝国海軍は関心を寄せ、自国用の巡洋戦艦としてイギリスのヴィッカース社に同様の艦艇の建造を1910年に依頼、これが金剛型巡洋戦艦の1番艦「金剛」となる。
但し大日本帝国海軍は「金剛」に続く同型2番艦の「比叡」は横須賀の海軍工廠、3番艦の「榛名」は神戸の川崎造船所、4番艦の「霧島」は三菱の長崎造船所で建造を行い、技術とノウハウの国産化も並行して実施した。
そもそも巡洋戦艦とは、巡洋艦の高速性とそれに伴う運動性、戦艦の大口径主砲等の攻撃力を併せ持つ存在として企画されたが、高速性を実現するには装甲を薄く・軽くする必要があり、防御力には脆弱さを抱えていた。
こうした巡洋戦艦のコンセプトは、第一次世界大戦におけるほぼ唯一の艦隊決戦となった、イギリス海軍とドイツ海軍との1916年5月に生起したユトランド沖海戦でその有用性を問われる事となった。
結果、このユトランド沖海戦においては、イギリス海軍・ドイツ海軍ともに艦隊の最前線に置かれた巡洋戦艦が前者3隻、後者1隻が撃沈されるという事態に見舞われ、戦術的にはイギリス側の勝利だったが禍根を残した。
殊に大日本帝国海軍が金剛型の模範としたイギリス海軍のライオン型巡洋戦艦の3番艦「クイーン・メリー」は、ドイツ側の巡洋戦艦が放った僅か2発砲弾の直撃で撃沈され、その防御力の低さを露呈してしまった。
この結果を受けて日本を含む各国海軍は、巡洋戦艦並びに戦艦の水平防御力の向上、戦艦の高速化が必須だと痛感し、引いては戦艦と巡洋戦艦という艦種の見直しを行い、戦艦に統合すると言う方向へと舵を切った。
金剛型の仕様の変化
これまで述べてきたように金剛型は、元々は当時の先端を行くと考えられた巡洋戦艦として起工され就役したが、ユトランド沖海戦のにおける同艦級の問題点の解決を図るべく、戦艦へと大型化改修が行われた。
1913年に就役を開始した当初の金剛型は排水量26,330トン、全長214.6メートル、全幅28.04メートルの艦体に、機関部には蒸気タービン2基を搭載、最大出力64,000馬力、最大速度27.5ノットと言う艦容であった。
これが最終的な改修工事を経た後には排水量32,200トン、全長222.0メートル、全幅31.02メートルの艦体に、機関部は蒸気タービンを4基に倍増、最大出力136,000馬力、最大速度30.0ノットと大型化・高速化が実現された。
主兵装について金剛型は、45口径の35.6cm2連装砲4基8門、50口径の15.2cm単装砲16基16門に変更は無かったが、当初は大型艦にも拘らず、接近戦における攻撃も考慮して53.3cmの魚雷発射管8基も搭載されていた。
この53.3cmの魚雷発射管8基は大型化改修工事によって撤去され、純然たる戦艦の括りに入れられたが、防御力の向上は元より、機関部の換装による高速化がその後の大東亜戦争(太平洋戦争)においては大きく寄与する事となる。
この大型化改修工事によって金剛型が得た30.0ノットと言う速力は、以後に建造された戦艦の扶桑型22.5ノット、伊勢型23.0ノット、長門型26.5ノット、大和型27.0ノットを大きく上回り、高速戦艦の呼び名を定着させた。
殊に大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦後、航空母艦を中核とする空母機動部隊が海戦の主力の座を確保すると、軒並み30.0ノット以上の高速を発揮するそれらに随伴可能な戦艦は金剛型しか存在しない状況が生じる。
その為、そうした空母機動部隊への随伴が可能な金剛型は、大日本帝国海軍の戦艦群の中で最も古い老朽艦となっていたにもかかわらず重宝され、その古さ故に仮に損耗したとしても許容範囲と考えられた。
金剛型の同型艦4隻の戦歴
こうして大型化改修工事によって名実ともに高速戦艦となった金剛型は、その使い勝手の良さが評価され、また老朽艦に就き温存する必要も薄いという現実も手伝って、同型艦4隻共に多くの作戦に従事した。
大東亜戦争(太平洋戦争)開戦後、1番艦の「金剛」と3番艦の「榛名」はマレー半島、フィリピンへの上陸、オランダ領インドシナへの上陸等の南方作戦の支援任務に従事した。
一方、2番艦の「比叡」と4番艦の「霧島」は、真珠湾攻撃を敢行した空母機動部隊の後衛任務に従事し、その後はパプアニューギニアのラバウル攻略を支援するべくトラック諸島(現在のチョーク諸島)に進出した。
開戦翌年の1942年2月には金剛型4隻は全て機動部隊に編入されインド洋へ展開、連合国軍を牽制する作戦に各々が従事、同年3月2番艦の「比叡」がジャワ島沖でアメリカ海軍の駆逐艦「エドサル」に大東亜戦争(太平洋戦争)初の戦艦の主砲発砲を実施、撃沈に貢献した。
続く同年6月のミッドウェー海戦においては、3番艦の「榛名」と4番艦の「霧島」が南雲機動部隊、2番艦の「比叡」と1番艦の「金剛」が近藤部隊として参戦したが、周知のように大日本帝国海軍は大敗を喫し、以後は守勢に回る。
1番艦の「金剛」と3番艦の「榛名」は同年10月のガダルカナル島のアメリカ軍のヘンダーソン飛行場への艦砲射撃で一定の戦果を示したが、翌月11月の第三次ソロモン海戦で2番艦の「比叡」が被弾、最終的に自沈に追い込まれた。
2番艦の「比叡」自沈の翌日には、今度は4番艦の「霧島」がアメリカ海軍の戦艦「サウスダコタ」と「ワシントン」の砲撃を受けて撃沈され、戦艦同士の砲撃戦において完敗を喫した形となった。
戦況がいよいよ日本の敗色が濃厚となる中、1944年11月、1番艦の「金剛」はアメリカ海軍の潜水艦の魚雷攻撃によって台湾海峡で撃沈され、残る金剛型戦艦は3番艦の「榛名」のみとなる。
3番艦の「榛名」は1945年7月、広島県の江田島の沖合に停泊し事実上海上の防空用の砲台として使用されていたが、アメリカ軍機の空襲を受けてその場に着底して大破、そのままの状態で敗戦を迎え、翌1946年7月に解体された。
活躍の場を得た金剛型
巡洋戦艦から高速戦艦となり、期せずして大東亜戦争で活躍の場を得た金剛型。
イギリス海軍が1912年に就役させた巡洋戦艦「ライオン」を目の当たりにして、同様な能力を持つ巡洋戦艦を時の大日本帝国海軍が欲した事でイギリスのヴィッカース社によって生み出された金剛型。
しかし第一次世界大戦で最大規模で且つほぼ唯一の艦隊決戦となったユトランド沖海戦において、イギリス海軍のライオン型巡洋戦艦の3番艦「クイーン・メリー」は僅か2発の被弾で撃沈され、その意義が問われた。
その対策として大型化改修工事を受け、機関部も大幅に強化された金剛型は30.0ノットと言う高速力を得て、他の元より重武装故に低速な戦艦群よりも作戦投入の機会が増加したのは、大いなる歴史の皮肉にも感じられる。
しかし個人的には、その高速力を得て大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時には既に老朽艦と見做された故に、酷使された感の強い金剛型の起用を鑑みれば、その搭乗員の方々の苦難には同情の念を禁じ得ない。
featured image:Scientific American, Public domain, via Wikimedia Commons


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